①「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、主イエスが言われるのは、主の受難と十字架の死を指している。洗礼は、主の十字架の死と復活のいのちに与ることである。それは私たちにとって「恵みの賜物」であると同時に、感謝と喜びのうちに歩む道である。
・四旬節は主の受難を覚えるだけでなく、復活の備えをする時である。弟子たちは、主のみ力を信じ、自分たちなりの期待をかけていたため、主イエスが受難予告をされたときに、受け入れることができなかった。
第1回目には、ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主をいさめ、主イエスから「サタン、引き下がれ。」と叱責を受けた(マタイ16:22-23)。
第2回目には、弟子たちは「非常に悲しんだ」(マタイ17:23)と記されている。
そのような背景があって、第3回目の受難と復活の予告(マタイ20:17-19)があり、この箇所のテキストにつながる。
・「人の子」ダニエル書7:13の「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」というみ言葉から、メシアを指して用いられていた。主イエスご自身は受難の出来事に関してご自分のことを言われるときに、この言葉を用いられる。多くの人の贖いとしてご自身の命をささげてくださったのである。