・へりくだることは自分を卑下することではなく、ありのままの自分を認め、神さまに受け入れていただくことです。
・ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。それは他者との関係を断絶し、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うことになります。
・祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。
・「罪人であるわたし」。罪とは神さまから離れることです。漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ罪人であるわたしを感じるのです。
・「義とする」はギリシア語の「ディカイオオー」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネー」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。
・「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚れた民衆から分離した者」と考えていました。
・ファリサイ派の人々は「口伝律法」を大事にしました。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。