・へりくだることは自分を卑下することではなく、ありのままの自分を認め、神さまに受け入れていただくことです。
・ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。それは他者との関係を断絶し、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うことになります。
・祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。
・「罪人であるわたし」。罪とは神さまから離れることです。漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ罪人であるわたしを感じるのです。
・「義とする」はギリシア語の「ディカイオオー」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネー」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」ということがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。
・「ファリサイ」ということばは「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚れた民衆から分離した者」と考えていました。
・ファリサイ派の人々は「口伝律法」を大事にしました。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。
「だって、…だもん」という言い訳の「だって、」という言葉をよく使わないでしょうか。本当は自分が間違っていることや自分がやらなくてならないことが分かっているのに、すぐに「だって、」と言ってしまうことがあるかもしれません。「だって、いいじゃない」という思いの反対は素直に過ちを認める心です。自分が間違っている、自分の方こそ正しくないという思いを持つことはとても大切なことです。
今日、イエス様のお話の中にファリサイ派の人々がでてきます。ファリサイ派というのは一生懸命規則や掟を守って生きている人たちです。すべての掟を守ることは立派なように思います。できれば、わたしたちもそうしたいと思います。ただ、ファリサイ派の人たちは「自分たちは他の人よりもちゃんと掟を守っている」といつも自慢していましたし、掟を守ることができない人たちのことをバカにしていました。でも、本当にすべての掟を守ること、すべての約束を守ることができるのでしょうか。時々、忘れてしまったり、知らなかったり、教えてもらっていたけど、勘違いして守れなかったということもあります。パウロという人は「正しい人は一人もいない」と言いましたが、それは人間は弱さを持っているから、決して神さまからの約束を全部守ることはできないと言っているのです。
イエス様は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している者」に対して今日のお話をされています。正しいのか、正しくないのかを決めるのは自分自身でしょうか。そうではありません。それを決めるのは他の人です。わたしたちにとっては神さまが決められることです。
贅沢な生活をしないようにし、たくさんの戒めを守りながら、その上で年長者たちには敬意をもって大事に、従う態度で接し、いつも神さまに祈り、人々のお手本となるような生活をすること。時には断食をしたり、自発的に献金をしたりする生活はとてもすばらしいものです。でも、その態度が自分の受けた恵み、神さまのくださった恵みに感謝しながら、他の人にもまた同じ恵みがあることを願い求める心を持つことこそが大切なのです。わたしたちが自分は決して、神さまから与えられた約束ごと守りきれない弱い、小さな一人だと気づく時、他人との比較をやめるとき、神さまの大きく深い愛に気づき、ありのままの自分でイエス様に受け入れてもらうことができることでしょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□4番 「けさもわたしの」
□改訂115番 「この花のように」
・ファリサイ人は、どこ(なに)を見ていますか?
・徴税人は、どこ(なに)を見ていますか?
・高ぶる心は、あなたにもありますか?
・へりくだる心は、あなたにとってどのような心(こと)と思いますか?
・思い上がるってどんなことでしょう?
・自分は正しいと思っている人と、悪いと思っている人と、どちらが罪深いと思いますか?
今日の箇所を子どもたちと分かち合いましょう。
「罪」とはどんなものでしょうか。
子どもたちがどんな風に受け止めているのか、聞いてみたら色々挙がると思います。盗む、裏切る、傷つける・・などが出てくるでしょうか。
聖書にある「罪」とは、盗んだ、傷つけた、などの行動そのものの事だけでなく、むしろ神さまに知らん顔をする、また周りの人たちに対して優しさやいたわりのない自分勝手な思い等わたし達みんなの心の中にあるものだ、と語られてています。
そのことを伝え、いっしょに祈りましょう。
罪をおかさないように、ではなく「神さまと私の心がいつも近くにあるように」また意地悪をしない、だけではなく「まわりの人たちと助け合って仲良く暮らしていけるように」。子どもたちには、愛なる神さまに向かってのびのびとした信仰をもつ人になって欲しいと願いますし、また、わたし達大人も同じ気持ちで祈りたいと思います。