・6節bの百人隊長の友達の言葉は、謙嬢の言葉。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた者で、自分の家に迎え入れることは、そのユダヤ人であるイエスに汚れを及ぼすことになる。それを避けるため、また謙嬢の心で語っている。異邦人との接触が「汚れ」を与える、というのは、ユダヤ人の側の一方的な考えである。言わば、身勝手で、おごり高ぶりの規定である。けれども、そのユダヤ人の間の風習を認め、思いやる気持ちをこの百人隊長は持つ。その習わしに沿うように事を運ぼうとすることは、考えさせられるものがある。
・百人隊長の頼みは、自分のためではなく、部下のため。
・8節は、イエスの言葉の権威への信頼の表れ。イエスは神の権威の下にあって、また、その権威を行使する、ことを認識している。「権威ある者の言葉が下に伝わる徹底さ」を百人隊長自身も知っていたし、主の権威もその言葉のみで徹底的に成されることを信じていた。その信頼にイエスは感心する。
・異邦人への福音伝播は使徒言行録にあるように使徒に託される。ここは、その萌芽としてある。
・異邦人である百人隊長が助けを求め、一生懸命に手を尽している姿、ユダヤ人の長老に頼み、また友達に頼んでいる姿に部下への愛情が表れている。
・病んでいる人や苦しんでいる人の苦しみや悲しみに共感する人々の姿に注目していることはルカの特徴である。例7:11以下(大勢の人が悲しむやもめに付き添うやさしい気持ちを持った人々の記載)5:17以下(人々の愛情からの必死な姿)他の福音書と微妙に違う。それらの人々の他者のための必死さ、叫びに対して主がお答えになる、そして、また主ご自身もその思いを抱かれているであろうが、それが結果いやされることになる。