罪を認める
このたとえ話は、聖書の教えの大切な要点を鮮やかに示したイエス様の有名なたとえです。
人は、永遠の命、理想の愛、人生の意味なしに生きる事はできません。それらの飢え渇きを満たされないままで人生の厳しさに立ち向かえないのです。人であることを捨ててしまった弟息子が、いかにして悔い改め、その父はそれを待ち望んでいたかが、このお話が心に残るポイントです。
当時の徴税人とは、外国権力の手先、強欲の塊、異邦人との接触から罪人と扱われました。
罪人とは、律法を守り得ない人、品行方正ではなく自分をどうしていいのかさえも分からなくヤケになっている人
(紙芝居でもいいかも)
放蕩息子の話を聞いたことがあるかな。教会の大人の人たちもこの話が好きな人が多くて、自分のことを放蕩息子だったと言って、教会に通ってくる方もいます。先生も好きな話です。
ある人に息子が二人いました。弟の方が父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いをしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
みんなはこの放蕩息子の話を聞いて、どう思っただろうか。弟の自業自得、放蕩の限りを尽くしたのだから、人生を取り戻すことはできないと。おそらく色んな意見が出て、この弟を救う手段は、こちらから与えることはできないかも知れません。ただこの弟の救いは、彼が再び、雇い人の一人でもいいからと、神様の家と示される家に帰ることを決意したことです。そこには有り余るほどのパンということを目当てにしたかも知れませんが、戻ろうとしたことや、まじめにやろうとする雇い人の一人にしてくださいという心を、悔い改めとして取り戻しました。
そのお父さんは、彼が帰ってくるのを待っていました。どれほど待っていたのか分からないほどです。しかし、見つけると、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。
憐れに思う、その気持ちは、悲しみや憤りの混ざった思いですが、決して彼を見捨ててなるものかという強い思いがあります。心身共にやつれた彼の姿から人生の厳しさを知った、その姿が浮かびます。しかし、神である父は、そこに留まらず、その体験を賜物に変えて、再び命を与えることを望まれるのです。
これが神の真理とするなら、私たちもこの弟のような体験をどう捉え、どう共に生きるために、寄り添うことができるでしょうか。
(執筆: 朝比奈晴朗牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
人生には、ハンディキャップがあったり、失敗したり、後悔することもある。完璧な人生を歩んでいる人はいなく、それぞれの人生を歩んでいる。ただ私たちは、自分の欠点だと思うことや、しでかしたことを隠そうとしたり、恥だと思って、神様の元にさえ、帰ることも億劫になりがちになる。
ただ聖書の神は、人生に成功しようとも、失敗を覚えても、変わらずに愛を注ぎ続けてくださり、悔い改めて戻ることを望まれています。そして、私たちの悔い改めにこそ、大きな恵みが隠されているのではないかと気付けないものではないでしょうか。