イエス様ご自身がご生涯をかけて、十字架に至るまで、神様が共にいてくださる「神の国・天の国」、神様に在って「実現している」救い、自由・解放を生き抜かれました。また、私たちの苦難を共に負ってくださる神様を指し示し御心を現す救い主でした。救い主は上からの目線でものを言うお方ではなく、下から支えながら励ましのみことばを語ってくださるお方です。共におられるから「実現している」のです。
神様が、イエス様が共にいてくださることを感じたご自身の経験などを語られたら素晴らしいと思います。
【14節】「 霊 」=「聖霊」。この箇所の前の部分から聖霊を受けて活動するイエス様のことが書かれています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3:21-22)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を 霊 によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4:1-2)。聖霊に従ってイエス様は行動なさいます。
【16節】会堂(シナゴーグ)は、ユダヤ人が安息日ごとに集まって神様を礼拝する建物。礼拝の中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。イエス様はたまたま開かれていた箇所をお読みになったことになりますが、単なる偶然というよりも、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
【17節】イエス様が朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたります(1-3章:第一イザヤ、40~55章:第二イザヤ)。本来は、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。
【18節】・「油を注がれた者」=「メシア」=「キリスト」を意味する言葉としてイエス様の時代にはこの箇所が「来るべきメシア」についての預言と受け取られていました。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。イエス様はこの預言が「今日、実現した」と宣言されました。
・「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で「圧迫されている人」のことを意味します。後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべての意味を含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」です。「福音」とは、「様々な圧迫からの、神様による解放」です。「解放」「自由にし」という言葉(「アフェシス」というギリシア語)は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、このことを伝えることがイエス様の使命でした。
・「目の見えない人に視力の回復を告げ」を私は、「神様の福音・神様の愛・神様の真理が見える」と私は採ります。肉眼で見えている人が見えているというわけではないと考えます。他に、「聞く」という場合でも、肉の耳が聞こえているから聞こえているということではないと考えます。聖書には「聞いて聞く」「見て見る」、「聞いて聞かない」「見ても見ない」というような表現は多くあります。肉的な意味での聴力や視力の意味で使われているとは思えません。肉眼で見えない人が神様の愛や恵みが見えるということが実際に起こります。聴力がない方が救いのみことばを聴く、聞き入れるということが起こります。この意味で読むことが大切だと思います。
【19節】「主が恵みをお与えになる年」とは元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25:10)がなされるヨベルの年のことです。
【21節】「今日」:「救いが今、実現している」ということを強調する言葉です。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(19:9)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)のような箇所にも見られます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様は宣言されました。それは今、この言葉を耳にする私たちにとっても「今日」のことであるはずです。
旧約聖書には神様から与えられる救い主とはどんなお方かが書かれています。その救い主は、神様がどんな時にも私たちと共にいてくださることを教え、私たちを自由にしてくださいます。私たちには嬉しいことばかりでなく、大変なこと、つらいことなどがあり、心が縮こまって心が固まってしまうようなことがあります。その私たちの心を自由にして、やわらかくしてくださるのです。私たちをそのようにしてくださる救い主がイエス様です。
イエス様ご自身、どのように生きられたでしょうか。私たちと同じように辛いことはイエス様にもあります。でも、イエス様はやさしい神様の中にすべてはあると思って生きられました。イエス様は神様のことを「アッバ(とうさん・とうちゃん)」と呼ばれました。とうちゃんが守っていてくれる、どんなことがあってもとうちゃんがいだいてくれている、そこを生きているんだ、そういう大安心がイエス様にはあったのです。その大きな安心の中で、楽しんだり、安らいだり、泣いたりして生きておられたのです。そして救い主は教えてくださいました。神様があなたのことを守ってくださっているよ、あなたの涙をあなたと一緒に流し悲しみを知っていて下さるよ、祈ってくださっているよ、そう教えてくださるのです。
この救い主が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。そして今も言われています。聞いた人たちにもそれぞれの苦しみ悩みがありました。その人たちに向かってイエス様は、神様の救いはあなたに「実現した」と言われました。背負っている問題はなくなったわけではなかったでしょう。でも、イエス様は救いなる神様はあなたと共におられる、救いの中にあなたはいだかれているよ、という驚くべき言葉を語られているのです。
神様は問題の解決へと導いて下さっています。そしてまさに今も共におられます。それを教えてくれるイエス様はやさしく、硬くなった私たちの心を解きほぐして、このままの私で前に向かって進んでいく、やさしいとうちゃんの導きの中を弱い私だけれどもこの私のままで過ごしてゆけるようにしてくださるのです。その中を歩んでまいりましょう。
(執筆: 光延博牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
イエス様は十字架という極めて辛い中で最期を迎えなければなりませんでした。人間の罪の性質がそこへ追いやりました。自己中心性を持っている人間に捨てられていくさまが聖書に描かれています。苦難を負う救い主がまさに私を救う、ということについて思いを巡らしてみましょう。状況を好転してくれないようなそんな神様なら要らない、と思う心が私たちにはあります。聖書の民衆も同じでした。しかし、本当の救い主は「苦難を共に負ってくださる方」であったことを、イエス様のご昇天後に人々は分かることになりました。何もできない無力な人だけども一緒に悲しみ泣いてくれる、共にいてくれる救い主を遠藤周作さんなどは小説で描いておられます。聖書が語る「救い」について思うところを語り合ってみましょう。