この記事を通して、「神様の祝福」へ心を向けていきます。この記事には様々なことが含意されていますが、いろいろなことがあり困難も多い私たちを守り、祝福してくださる神様、イエス様を覚えることができたらと思います。
・参列したりあるいは自分自身の結婚式のことを共有しながら、人生の中で神様の励ましがあったことなどをこどもたちと共有できたらよいのではないかと思います。
水をぶどう酒に変えてくださった(そして、これからもそうしてくださる)ということが意味することを、困難な中にも与えられた神様の平安や助けという自分の体験を話すこともよいのではないかと思います。悪い状況が一変して良い状況になった経験もあるでしょうし、状況は変わらなくても、「ここにも神様が共にいてくださる」と聖霊によって示されて元気が与えられたというような経験を語ることは素晴らしいと思います。「ここにある神の国」へと、私と共に苦難を負うイエス・キリストによって目が開かれる時、世界は一変します。つまり水はぶどう酒に変わります。苦難は依然としてあったとしても、神様が共におられるという祝福があることに目が開かれるでしょう。神様、イエス様のお力で励まされた経験をこの物語と重ね合わせて読み、そして語ることができればこの箇所にふさわしい証しとなるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書が伝えるイエス様の活動の初期の場面です。
1章19節~2章11節の出来事は6日の間に起こりました。「その翌日」が3箇所、そして今日の「三日目に」とありますのでそれを数えていくとそうなります。創世記1章にある神様の天地万物の創造の日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造の御業として描き出し、その頂点である今日の箇所を新しい創造が始まったことを示す象徴的な出来事(しるし)として伝えます。7日目には神様は安息なさったという意味は、こうでしょう。被造物に必要なものすべてを準備して整え、創造の冠として人間を創造された神様は、その安息の時に(安息日に。キリスト教では「主日」の日曜日の魂の安息の時に)、私たち一人ひとりと対話しようと、時間を取り分けておられる、つまり神様の安息とは、私たちが命の根源である神様のみもとに憩って安息し、安らぎと癒し、そして生きる力を与えようという時を私たちのために備えていてくださる、それが神様の安息という意味だ、こう捉えていいです。そして、
今日の婚礼のイメージとは、まさに命の根源なる神様がインマヌエル(共にいてくださる・一つとしていてくださっている)という真実であり、神と人とが一つであることを指し示すイメージ、すなわち救いのイメージ、そしてその祝福であるぶどう酒、神様と共にある喜び象徴なのです。神様と私(私たち)との親と子の一つとしての温かい関係の中を生きることの喜びがこの最初の奇跡を通して暗示されています。そしてそれをもたらしてくださった花婿イエス様と花嫁である私・私たち・教会をも指し示します。
【3節】「ぶどう酒がなくなりました」は、直訳では「ぶどう酒がない」です。ぶどう酒は、救いの象徴と考えられますので、今(人間の我・エゴの世界には)「救いはない」と母マリアはイエスに訴えていると言えるでしょう。この言葉は、神様のことを覚えないで営む人間だけの世界であるならば、そこには救いはない、との表現ではないかと思います。
【3節~5節】母マリアの訴えに対しイエス様の対応にはつれない態度さえ感じます。ここでは、最も近しい関係と言ってよいほどの母親からの願いに答えるということではなく(人間の求めに応えるという神ではなく。人間が主であり、神は人間に従属するのではなく)、主導権をもって(主なる神・主なるキリスト。神様が主であり、私たちは主に従う存在)、なにものにも従属・支配されない、その自由なる主権者として、「被造物を愛する御心のままに行為される神と神の子」が表されています。
【4節】「わたしの時」とは、十字架の時です(12:23・27、13:1、17:1など)。それは受難の時ですが、同時にイエス様が御父(神様)のご愛を完全に現し、そして神様の「みもと」に行く栄光の時でもあります(19:30「成し遂げられた」)。「ご自身を無にし、愛する被造世界、愛する一人ひとりを背負い、ご自身の痛み・苦しみをもって罪を赦し新しい歩みへと導いておられる」(みもとに)、御父と同じところへ(極限の愛という同じ働きのところへ)とうとう至った、極まった、「栄光」(アガペーの光)の時、神様の被造物への愛と完全に一致した「栄光の時」です。
【6節】「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧い契約のシンボル。1メトレテスは約39リットルなので、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。新しい創造という意味については、上に書きました。ここでは「6」という数字についてもう一つの意味が重ねて表現されていると思います。それは、「人間の力による・律法遵守による救いへの道」ではなく「愛の主権者である神様による救いの顕現」がこの奇跡の記述とこの6つの水がめという記述は表していると見てよいでしょう。「7」は完全数であり、一方、「6」は不完全な数字として聖書では用いられます。水がめの数は「6」であるとヨハネはわざわざ書きます。人間の努力によって神様が喜ばれるように立派に生きようとする旧約の時代を象徴しており、この婚礼での出来事はそういう人間の限界のある世界のただ中に、神様の完全さ・完全な救いの到来がイエス様によって現わされた出来事をこの奇跡を通して指し示しているものと捉えることができます。「そこには、ユダヤのきよめのしきたりによって、・・石の水がめが六つ置いてあった。」とあります。6つの水がめが象徴していることは、ユダヤ教のしきたりの通りに行う努力によって自分をきよめて神に喜ばれようとすることだと言えるでしょう。いくらやっても完全に行うことはできません。この事は、パウロやルターが苦しんだことでもあります。自分の力で救いを勝ち取ろうと考えてしまうことに陥ることが人間には多くあります。これらの先生方は後に、恵みの神様から与えられている救いに目が開かれた時に御救いの中に在る全被造物を知るに至りました。6つの水がめは、旧約時代、また自分の力に依り頼もうとして救いに在る自分たちが見えない古い自分や世界の象徴でしょう。そういう私たちに神様の救いが救い主によって啓示されたのです。水がぶどう酒(救いと喜びの象徴)に変えられたという奇跡をもって、救い主が来て本当の救いが到来したという大奇跡が暗示されて
いると読めます。
【9節】・「良いぶどう酒」であるイエス様によって到来した新約時代の救いを表しています。
・「召し使い」はギリシア語で「ディアコノス」で、「仕える者、奉仕者」という意味です。イエス様の言葉に従い、そのなさることに仕えた人たちも、イエス様に協力したマリアと共に、イエス様に仕えて生きる者の模範として描かれていると思います。
・「婚礼」のモチーフを聖書では、花婿イエス・キリストと花嫁である私たち一人ひとり、また「教会」との婚礼の意味として使う場合があります。ヨハネ17章にも「一つになるように」と祈る救い主が表されています。この福音書の大事なテーマだと思いす。また、ルター先生の『キリスト者の自由』にもこのモチーフが使われています。
神様は目には見えないけれど、神様は私たちの幸せを願っておられます。イエス様もそうです。結婚する二人の幸せを祈り、祝福してくださいます。
みんなはだれかの結婚式を見たことがあるかな?結婚する二人は神様と集まった人々の前に立って、神様の祝福を受けて新しく歩み出します。神様がいつも守ってくださいます。その祝福の中へ入っていくのです。牧師さんが結婚式を導きます。人間というものは弱い者で、人生のいろいろな大変なことがあると心が弱り果ててしまうことがたくさんあります。でも、神様が一緒にいてくださって、二人を守り導いてくださる、幸せのほうへ連れて行ってくださるのです。
イエス様とお弟子さんたちは結婚式に出かけて行きました。たいへん!お祝いのぶどう酒がなくなってしまいました。みんなでお祝いしよう、祝福しようと集まった仲間たちと二人がこの幸せの時を一緒に過ごすのに、ぶどう酒がない。その時イエス様は水をぶどう酒に変えて、結婚式を祝福してくださったというのです。神様が喜んでおられるから、祝福していてくださるからイエス様はそうなさられたのです。そこでみんなが一緒に楽しみ、二人の新しい出発をお祝しお祈りすることができました。イエス様はこの奇跡で何を伝えられたのでしょうか。
どんなときにも神様は一緒におられるよ。だから大丈夫だよ。あなたたちはこれから神様が守ってくださる道を進んでゆく。いろんなことがあっても、神様が励ましてくださるよ。そしてわたしたちも一緒にいるよ。そう伝えてくださったと思うのです。
これから結婚式を見たときにはこのことを思い出してね。お二人を神様がイエス様が祝福していてくださること。それだけじゃないよ。神様は私と一つ、どんなときにも一緒にいてくださるって、イエス様は命あるかぎり教えてくれたんだから、みんなを、あなたを祝福してくださっているってことだよ。そのしるしが結婚式なんだよ。このことを今日は一緒に覚えましょう。
(執筆: 光延博牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
今日の物語の中に込められている内容は、詩編23編の内容と響き合うものがあると思います。併せて読む時間があれば、カナの婚礼を祝福なさる神様・救い主がより重層的に味わえると思います。詩編23編は極めて重要な聖書箇所であり、神様の救いとその中を生きて行く信仰者の幸いが凝縮されてよく表現されていると思います。もし可能であれば詩編23編を読んでください。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」から始まります。これは凄い告白です。神様のことを想わず、人間だけでの生活(営み)には「足りない・欠けている」と考えることが多くあるでしょう(マリア「ぶどう酒はない」)。しかし、「あなたがわたしと共にいてくださる」ので、満ち足りています。そのことを受け止めるとき世界は変わります。「足りない・欠けている」が「何も欠けることがない・わたしの杯を溢れさせてくださる」など、その満ち足りている表現に満ちています。この詩人は物質的に裕福であったから、生活の苦労も苦難も問題も何もなかったからこのようにうたっているのでしょうか。そうではありません。死の陰の谷を行かなければならないこと、苦しめる者を前にする辛さがありましたし、これからもあるのです。そのような辛い現実があるにもかかわらず、驚くべき歓喜の声を上げているのです。苦しみがあってもなお、決して奪われることのない・決して滅びない・いつどこででもある「あなたがわたしと共にいてくださる」、つまり命の創造者であり救いの主と神様を全身全霊で現してくださったイエス・キリストがその主導権によって(権威をもって)私たち一人ひとりと「一つ・一体」で一緒におられます。言い換えれば、私とは、神様が一体として生きている存在なのです。この根源の、神様と私との「親と子の温かい結びつき」の中に私たちは生かされています。
そのことをイエス・キリストは現してくださいました。ここに救いが、何があっても、神様と共に生きられる道がここにあると思います。イエス・キリストによる新しい創造・新しい時代の到来とは、そのことが私たちの生活を神様と共にある生活として潤いと光をもたらしてくださったという意味が込められています。「救い」は「罪の赦し」が大きく含まれますので、この意味でも「欠乏が満たされた」との表現にはこの内容が含まれています。だから潤いと光があると言えます。このカナの婚礼の物語は、この救いを象徴するものです。このことについて思いを巡らしていただければと願っています。