地上の富を積むのではなく、天に富みを積もう。つまり、富やお金などに執着するのではなく、神様の深いみ心を尋ね求めることを日々、大切にしたいのである。
ある金持ちの男の主イエスとのやり取りを書いた物語である。当時、ユダヤの社会ではお金持ちになること自体は神様に特別に祝福されたことであるとみなされていた。悪いことではなかったのである。しかし、主イエスはこの男に、その財産を捨てて自分に従うことを要求する。なぜか。貧しい生活を送る人は、その貧しさで神様への信仰が無くなることはないであろう。しかし、沢山の富をもつ者は、神様に頼るよりもそのお金に執着し、こだわってしまい、信仰を失うことになりかねないことがある。主イエスはそのことを見通して、この男に財産を捨てることを要求したのである。
富とは、そもそも何のためにあるのでしょうか。キリスト教では古くから自分のためだけにその富を用いるのではなく、隣人のために用いることを視野に入れて理解してきました。富を隣人のために用いることも神様からの恵みです。富とは、まず第一に隣人と分かち合うために、その人に委ねられたものなのです。
私が勤務する幼稚園では、毎日、礼拝が行われています。その礼拝の中で時折、子どもたちが献金をします。「お捧げしましょう、心から。神様、御用のために」と歌いながら献金します。最初、この献金の姿を見た時、驚きました。まだ、3歳から5歳児までの子どもたちが謙虚に神様にお捧げをするからです。献金とは、自分が持っている富を神様にお捧げすることです。とても大切な行いであります。
今日の福音書は、ある金持ちの男のお話です。この男、子どもの頃から律法を守り、十分な信仰生活を送ってきたのです。しかし、何かその心に満たされないものがあったようです。主イエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたのです。この問い、もう少し言うならば、「どうしたら救いに与かることができるでしょうか」との意味です。
この問いに対して主イエスははっきり答えます。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と。当時の社会では、お金持ちであることは、褒められることでした。それは神様の祝福があってのことだからです。
しかし、主イエスは富を持つことの危険性を見ておられました。それは、富を持つと、人はその富に心奪われてしまうからです。貧しい生活を送っていても信仰が無くなることは、まず、ないでしょう。しかし、富は、そのお金に心奪われ、信仰よりも、神様のことよりも、お金に心が向かうときがあるでしょう。主イエスはこのことを見通しておられたのです。私たちは、富やお金よりも、やはり神様、イエス様に、心を向けて歩んでいきたいと思います。そうすれば、天に、神様のみ許に、本当の意味での宝物を積むことに繋がります。本当の意味で、神様は喜んで下さいます。
子どもの時から礼拝の中で献金をすること。このことは、大変良いことであると思います。神様の御心に従って生きるために、富を地上に蓄えるのではなく、天に蓄えることです。私たちは、自分の持っているものを神様に委ねて、神様のみ心を尋ね求めつつ、一週間を歩んでいきたいと思います。
(執筆: 筑田仁牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)116番「まごころこめ」、改訂版24-2番「まごころこめ」。
<準備>
・お菓子などの箱(あまり大きくない方がいい。1人、3個ずつくらい)
・小さめのポストイット(なければメモ用紙でもいい。その場合はセロテープを用意。)・筆記用具
<活動>
① 自分にもしもお金がたくさんあったら、何に使うか、考えてみよう。そして、自分のために使うことを1枚のポストイットにひとつずつ、3枚分書き出そう。
② 次に、誰かほかの人のためにお金を使うとしたら何ができるか考えてみよう。例えば、自分の周りだけでなく、いろいろな所に困っている人、お金を必要とするところはどこにあるかな?分からなかったら、周りの大人にも聞いてみよう。
③ ほかの人のために使うことも同じように、1枚のポストイットにひとつずつ、3枚分書いてみよう。
④ 自分のために使うと書いたものは、自分の前に貼り、ほかの人のために使うと思ったものは、箱に貼ります。
⑤ 最後は、机の真ん中に、ポストイットを貼った箱をそれぞれ持ち寄り、書いたことをみんなでシェアしてみましょう。そして、みんなの箱を積んでみましょう。高く積めるかな?
今日のお金持ちは律法を十分に守っても、また、財産を沢山持っていても、満たされない思いを持って生きて来た。
主イエスはその虚しさを突いて、本当に充実した人生を送りたいのであれば、地上の富ではなく、天に富みを積み重ねることの大切さを説いたのである。主イエスはこの男に、その富に執着するのではなく、貧しい人々に施すことを進めて、生き方自体の大転換を求めたのである。