大人の人でも、「聖書にはいいことが書いてある」「キリスト教の礼拝に出ることは、精神的な成長のために役立つ」と思っている人は少なくない。
神を信じることは、神のみ言葉を信じること。それはただの「いい言葉」ではなく、まことの神の言葉、命の言葉、救いのことばであることを教師たちも改めて受け止め、語り、分かち合いたい。
「この人はいつもいいことを言う。」「あの時のあの人の一言で、救われたなぁ」・・・私たちは、言葉で生きています。言葉が私たちを導いています。良い言葉を聴いているか、良い言葉を語っているか。
でも、どんなに良い言葉があっても、「永遠の命の言葉」は神様のお言葉だけです。その言葉を、今、私たちも礼拝で聴くことができることを共に喜びたいものです。
○こんな角度からも
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカによる福音書7章)
この百人隊長は、「主の言葉」をおさなごのように信じていたのでしょう。病気を治すのに、わざわざ手を置いたりしないでもいい。ただひとこと言ってくださいと願ったのですから。思えば、創世記のはじめで、「光あれ」と言われただけで、光は生まれたと伝えられていますね。
神様が、「わたしはあなたを愛している」「わたしはあなたを救う」と一言言われたのなら、それは、もう成し遂げられています。そのことを、信じる者は幸いです。
「空の鳥を見よ、野の花を見よ」「求めよ、そうすれば与えられる」「明日のことまで思い悩むな」・・・こういった言葉は、あまり抵抗なくいい言葉として喜んで聞ける。これは、当時の人々も、そして、今の私たちでも同じです。
でも、イエスさまが受難予告をなさったり、「わたしを食べなさい」などと言われた時、人々は去って行きました。また、使徒たちが復活について語った時、「その話はまたそのうちに」と言ったとあります(使徒言行録17章)。今日の個所でも、多くの人がイエスさまを離れて行ったとあります。その中で、いいえ、離れません、という姿勢でシモン・ペトロが言った言葉でした。
みなさん、ことわざって知っていますか。ちょっと難しいかな。たとえばね、「塵も積もれば山となる」って言葉があります。小さな、小さな塵でも、たくさんたくさん集まると、山みたいに大きくなりますよ、って言葉です。私たちができることは、小さなことばかりだけど、それがたくさんになると、大きなことになるって教えてくれています。そういう言葉を知っていると、「よし、小さなことだけど、頑張って続けよう」って気持ちになります。
言葉は、私たちに勇気や、やる気、励ましを与えてくれるんですね。
ことわざでなくても、誰かからもらった言葉が、ずっと心に残っていることもあります。おうちのひとや、先生から、どんな言葉をもらったかな。何か思い出せる人もいるかもしれません。(先生は、こんな言葉を○○さんから言われて嬉しかった。心の中にいつもその言葉があるのですよ、・・・といった教師自身の言葉を紹介するとなお良い)
いっぱい、いい言葉を聞きたいね。
さて、いろいろな「いい言葉」があるけど、なんといっても、いちばんいい言葉は、聖書にある、神さまの言葉です。それは、全部いい言葉です。それも、ただいい言葉であるだけでなく、私たちを愛してくださる神様の言葉、いつも共にいてくださる神様の言葉、私たちをお救いくださる神様の言葉。それが聖書に書いてあります。
礼拝というのは、その神さまの言葉を聴く時間だから、本当に大切で、本当に幸せな時間なのです。
神の御子イエスさまが語られるお言葉を聞いていた弟子たちは、イエスさまのお語りになる言葉が、神さまのことばだとわかりました。それは普通の「いい言葉」とは違うことがわかりました。神様の愛の言葉だとわかったのです。
今日のみ言葉は、シモン・ペトロさんがイエスさまに言った言葉でした。
「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
私たちも、今日、神さまに感謝して言いましょう。「いつも、礼拝で聴いている言葉、それは、永遠の命の言葉です。神様、ありがとうございます。」と。
これからも礼拝で、神さまの永遠の命の言葉を共に聴きましょう。
(執筆: 角本浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)99番「せいしょはてんから」、改訂版132番「きみがすきだって」。
<用意するもの> 紙(カード)、ペン
心に残る嬉しかった言葉ってなあに?
ずっと心に残っている誰かからもらった言葉を聞いてみましょう。
おうちのひとや、先生から、どんな言葉をもらったかな?
次に「はなしてみよう」のみことばを紹介し、心に響く命のみことばを選んでもらう。
他にも教師が好きなみことばを紹介してみましょう。
昨年までのみことばカードが残っていたら、並べて選んでもらっても良いですね。
1つ選んで、紙やカードに書いて覚えてみましょう。
以下のみ言葉は、どれも、「みことば」について語るみことばです。神の言葉が、いかに私たちにとって、「命のことば」「永遠の言葉」であるかを教えます。
あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。(詩編119編105節)
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ書40章8節)
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」(マタイによる福音書4章4節)
14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15平和の福音を告
げる準備を履物としなさい。 16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによ
って、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17また、救いを兜
としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エフェソの信徒への手紙6
章・・・この日の第二日課)
そして、次のみ言葉。
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書1章)
最後に紹介したヨハネ福音書から、季節外れですが、クリスマスはイエスさまが「
神の言葉」としておいでになられたことを思い起こすのもいいでしょう。