マルコ年の8月は、ヨハネによる福音書6章が続きます。テーマが毎週似たように思えて、難しいと(たぶん多くの牧師たちも感じていると)思います。その中で、一度は「聖餐式」とからめて語るのは必要かと思います。いつもそれになってしまうと、ワンパターンだと思われてしまうかもしれませんけれど。
この週において「食べる」という言葉がありますから、聖餐式と重ねて語ることは子供たちへの信仰継承においても有益だと思います。
聖餐式において牧師が宣言する「私たちの主イエス・キリストの体と血とは、信仰によってあなた方を強め、守り、永遠のいのちに至らせてくださいます。アーメン」の言葉を思い起こすことができます。
あの時、イエスさまの言葉を聞いていた人たちが、離れて行ったように、このことを信じることは容易ではないかもしれません。しかし、改めて、信仰によってみことばを聴いて、祈って、語りたいものです。
これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。とあるところは、マナが念頭にある言葉と思われます。マナは出エジプト記16章に記されている、四十年間の荒れ野の旅の間、与えられた食べ物です。森永のマンナは、これに由来しています。
おとなの人たちの礼拝では、聖餐式っていう時間があります。それは、小さなパンと、小さなコップのぶどうジュース(ぶどう酒)です。ほんの少しですから、おなかいっぱいにはなりません。でも、イエスさまを信じるおとなのひとたちは、アーメンって言いながら、どんなお食事よりも、大事な、大事なお食事と思って、神さまに感謝しながら、いただきます。
牧師先生がパンを差し出して、言います。「これは、(あなたのために与えられた)キリストの体です」と。それから、ぶどうジュース(ぶどう酒)を差し出しながら、「これは(あなたのために流された)キリストの血です」と。
普通のお食事なら、もっと大きなパンを食べるし、もっと大きなコップで、ゴクゴク飲むでしょう。先生も食いしん坊だから、いっぱい食べます(ここは私の場合。違う場合は、違う表現でどうぞ)。
でも、普通のごはんは、食べたら、なくなります。そして、朝ご飯を食べても、お昼になったら、またお腹が減ります。夜にもお腹が減ります。どんなにたくさん食べても、それは、なくなってしまって、またお腹は減ります。
けれども、イエスさまはなくなりません。消えません。永遠に生きておられます。イエスさまは、私たちが、神さまの子供として、神さまに愛されて、ずっと神様のもとにいるお約束のパンです。それは、消えないのです。それは、どんな食べ物よりも、大切です。
大人の人の礼拝では、この聖餐式という時間を、みんなで大事に守ります。
「わたしは命のパンである。このパンを食べるものは永遠に生きる。」
私たちのために、十字架にかかって、その命までもくださったイエスさまのお言葉、しっかりおぼえておきましょう。
(執筆: 角本浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)5番「かみさまは」、改訂版131番「かなしいことがあっても」。
*先週の続きです。
・先週作ったパンに色を塗って、仕上げましょう。
いのちのパンのできあがり!!
※教会の設備や衛生環境が整っていれば、本物のパン作りをするのも良いですね。
神様を信じるということは、頭の中だけで考えたり、知ったりするだけではありません。イエスさまは、それを私たちがからだでも受け取ることができるように、聖餐式をご用意くださいました。
神様のこと、神さまの愛を、頭だけではなく、からだで受け止めたり、実際に動いて知っていくことって、他に何があるかな。