当時聞いていた人たちにもなんだかわかりづらい言葉だったのでは。今、私たちにもピンときづらい言葉かもしれません。それでも、私たちは、食べて、寝て、起きて、働いて・・・というだけの存在ではない。神の言葉により、神の愛により生きる者であることをおぼえる時としたい。
関連するテーマを持つものとして、「この石をパンに変えたらいいではないか」というサタンの誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではない、神の言葉によって生きる」とイエスさまがお答えになった個所(マタイ4章)が思い出されます。
人は何によって生きるか。語る者も問われます。
「わたしは何々である。」というイエスさまのお言葉は、ヨハネによる福音書の中にのみ、見出すことができます。それを学ぶことも大事。教師は調べて臨んでほしい。
またそれだけにとどまらず、英語で言う I am そのものが、神さまの宣言であることも知っておきたい。(出エジプト記3章 ヨハネによる福音書8章など)
聖書には、神さまがいちばんはじめに、人をお造りになった時のことが書かれています。知っていますか。こう書いてあります。
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創世記 2:7)
神様は、土をこねて、人を造って、鼻から神様の命の息をフーッて吹き入れてくださったんですって。すごいね。私たちの中には、神さまの命の息が入っているんだね。
それは人間だけです。
太陽を造った時、神さまは命の息を吹き入れてはおられません。動物たちや、鳥たちをお造りになった時も、神さまは命の息を吹き入れておられません。人間だけ、神さまの命の息を、フーッて吹き入れてくださったのです。神様は、私たちのことを特別に愛してくださっておられます。
私たちのいのちは、神さまに守られています。私たちの中には、神さまがおなかいっぱい入ることが大事です。でも、人はいつの間にかそれを忘れて、(難しい言葉で衣食住って言いますが、)生きるのに必要なのは、食べ物です、お水です、おうちです、お洋服です、と言って、神さまを忘れてしまいます。
イエスさまが「私は命のパンです」と言われた時、多くの人たちは、「イエスさまというパンは要らない」「本当のパンがあればいい」「食べ物、お水、おうち、着るものがあればいい、それがないと生きていけないよ」と思いました。確かに、食べ物は必要です。お水も必要です。お洋服も、おうちも必要です。もしも私たちがただ体だけだったら、それだけでいいでしょう。
でも、私たちは、神さまの子供として、生まれました。神様の命の息を吹き入れてもらって生まれました。私たちには、神さまが必要なのです。
食べたものはなくなります。またおなかがへります。でも、イエスさまは消えません。神様は消えません。この神様の愛、イエスさまの愛で、おなかいっぱいになるために、イエスさまはおっしゃいました。「わたしが命のパンである。」
(執筆: 角本浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)35番「しゅわれをあいす」、改訂版124番「あいのしゅイェスは」。
<用意するもの> 紙粘土・竹串・絵の具
1、 みんなの好きなパンは何パンかな?
食パン、あんぱん、くりーむパン、メロンパン
2、 紙粘土で好きなパンを作ってみよう
3、 竹串で今日のみことば「わたしが命のパンである。」と書く。
*今週はここまで。一週間乾かして、来週色を塗ります。
「食べ物ものどを通らない」という経験はしたことがあるだろうか。それはなぜだろう。それはどんな時だろう。
人は、いつでもお腹がへっているだけではない。おなかを満たすことだけを求めているのではない。別の何かがある。それは何だろう。