聖書にある「○○しなさい」という言葉は、いわゆる命令、義務ではなく、その言葉の向こう側に愛に満ちた主のお姿から生まれていることを分かち合う。まず知るべきは、私たちへの主の愛。このことを伝えたい。
主の晩餐(最後の晩餐)の席上で語られたみ言葉である。「互いに愛し合い、み言葉にとどまっていなさい、・・・困難にあう中でわたしから離れずに!」という主の思いを聴き取りたい。
「とどまる」と訳されている単語は、ギリシア語でメノー。これは、少し前に書かれている「ぶどうの枝として、私につながっていなさい」という時の「つながる」と同じ単語。主につながる、主の愛にとどまる、礼拝に来つづける、・・・といったところでの関連から見ることもできるでしょう。
「この中に入ってはいけません。」「これは触ってはいけません。」「あいさつをきちんとしてください。」「ご飯は残さずに食べるのですよ」「危ないところに行ってはいけません。」「制服をちゃんと着なさい。」・・・私たちのまわりには、よく決まりがあります。学校に通っているお友だちは、校則っていうのがあるのを知っているかもしれません。学校によっては、髪の毛の長さとか、スカートの長さとか、靴下の色まで決まっているところもあるかもしれませんね。
おとなになってもね、決まりはありますよ。車を運転するときは、「交通ルールを守ってください」「赤信号は止まってください」それから、働いたお金の中から「税金というお金を払ってください」なんて。それはどれもとても大切ですけど、ときどき、面倒くさいな、と思ってしまうことがあります。いちいち命令されたりすると、私は自分の好きなことをしたい!と思うことがあるからです。
さて、イエスさまも、この「何何しなさい」ということをおっしゃいました。今日の聖書には何て書かれていましたか。「わたしの愛にとどまりなさい。」(それから、「互いに愛し合いなさい。」)とありますね。
お弟子さんたちは、やっぱり、命令されるのはあまりうれしくなかったかもしれません。「そんなこと、言われなくてもわかってるよ」と思った人もいたかもしれません。決まりは面倒くさいもんね。
ある時、こんなことがありました。イエスさまは、弟子たちをご覧になりながら、「おや、外でいっぱい歩いてきたから、足が汚れているね。どれどれ、洗ってあげよう」って、お水と手ぬぐい(タオル)を持ってきて、お弟子さんたちの足を一人ずつ一人ずつ、優しく洗ってくださいました。「ええっ、人の汚れた足まで、洗ってくださる。それも、自分から進んで、しておられる。」・・・そんなお姿を見た時、お弟子さんたちは、「私もイエスさまみたいに、周りの人を愛せる人になりたい」と思うようになりました。
「わたしの愛にとどまりなさい。」(それから、「互いに愛し合いなさい。」)
今、私たちにもこの素晴らしい教えが届きました。
私たちも、イエスさまのように、周りの人を大切にしましょう。
(執筆: 角本浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)106番「イエスさまは イエスさまは」、改訂版34番「キリストのへいわ」。
<用意するもの>画用紙、ペン、ひも(麻ひも、リボン等)、木製の洗濯はさみ(クリップも可)
1, ハトの形を画用紙にコピーし、(自分で書いてもOK!) 切り抜く。
2, 切ったハトの片側に、自分の名前を書く。もう片側には「互いに愛し合う」ためにどうしたら良いかを考えて書く。1枚でなくても複数でもOK!
3, 壁などに、ひもを固定し、洗濯はさみでハトを吊るす。
「このハトのように、イエスさまの愛にとどまることができますように。」
聖書にある「○○しなさい」「○○してはならない」という表現、他に何があるでしょうか。知っているものを紹介し合ってみましょう。
紹介するのが難しいことが予想される時は、先生が用意されるのもよいでしょう。
そのうえで、それらの言葉の向こう側に、どんな御心があるかを考えてみると聖書理解、福音理解が深まると思います。