・主イエスを信じることによる「平安」は、私たちにも与えられていることを知る。
・ペトロにイエスが現れてくださったこと、エマオ途上にあった二人の弟子(12弟子以外の者)が復活のイエスに会ったという報告を聞いたにもかかわらず、受け入れられなかった弟子たちという状況を理解する。
・食事をするという行為が弟子たちの確信につながるのだが、最後の晩餐の時の所作、告げられた言葉等の具現化という面もある。
・復活された後に弟子たちに会ってくださった出来事を通して、「私を信じなさい」という神の強い思いを受け入れること。
・ルカによる福音書は、復活のイエスが12弟子以外の弟子に会ったことから復活の出来事を始める。それは復活のイエスの出来事が、少数の者たちの体験ではなかったことを伝えている。
・「平和があるように」と告げることによって、私たちの中に存在する「恐れ」や「ありえない」という思いを取り除いてくださる。
弟子たちはみんな、まさかあの食事がイエス様と最後の食事になるなんて思っていなかった。あの食事は楽しかった、イエス様ご自身が私たちのために杯をとってお祈りし、その杯を「飲みなさい」と渡してくださった。イエス様はパンも取ってお祈りし、裂いて直接私たちに与えてくださった。しかし、食事の後に、イエス様は兵隊たちに連れていかれてしまった。自分たちも捕まるのではないかと、慌てて逃げ出した。捕まったイエス様は十字架に付けられて死んでしまった。食事の楽しさはどこかにいってしまい、ただただ恐ろしかった、「自分たちも連れていかれるのではないか」と思ったからだ。
ところが三日後、お墓が空っぽになっているのを、一緒にいた女性たちやペトロが見た。輝く衣を着た人が、「イエス様は復活されて、ここにはいない」と教えてくれたというけど、不思議でならなかった。だってイエス様は、確かに死んでお墓に入れられたのだから。
自分たちはこれからどうなるのだろうという不安な気持ちを抱えた弟子たちが集まっていると、イエス様がその中に入って来られた。弟子たちには、幽霊を見ているのではないかと思った。しかし入ってきたその方は、手や足の傷をお見せになり、そして「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を持っていくと、イエス様は美味しそうに魚をお食べになった。弟子たちは思い出した、最後になってしまったと思っていた食事の時、イエス様が美味しそうに食べ物を食べておられた姿を。そしてもう一つ思い出したことがあった、「私は十字架に付けられて死んでしまうけど、三日後には復活する」と言っておられたことを。弟子たちは「目の前におられる方は、あの時のイエス様だ」と、しっかりと受け入れることができた。
弟子たちの心にあった心配なことは、もうなくなっていた。それだけでなく、イエス様のことを沢山の人に教えてあげたいと思うようになっていた。
(執筆: 中島康文牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)41番「すくいのぬしはハレルヤ」、改訂版91番「しゅのふっかつ、ハレルヤ」。
イエス様は「あなたがたに平和があるように」とご挨拶しました。これはヘブライ語では「シャロー
ム」という言葉です。
みんなも、お手本を見ながら、ヘブライ語で「シャローム」って書いてみましょう。
びっくり1 みたこともない文字です。
びっくり2 右から左に書きます。
本来の格好良い書き方と、手書きでの簡単な書き方があります。まずは簡単な書き方で書いてみましょう。
自信があるお友達は、本来の書き方に挑戦してみよう!
・神様が与えてくださる「平安・平和」とはどんなことだろう。
・神様は何故私たちに、「平安・平和」を与えたいと強く思っておられるのだろうか。