「復活」とは理解することではなく、信じることであり、信仰の原点がそこにある。
・疑い深いトマスを通して、イエスの復活に懐疑的であった人々が存在していたことを知ることができるが、それはどの時代においても同じである。しかし、復活の出来事は、私たちが信じるかどうかなどとは無関係に、確かな出来事として伝えられていることに目をとめたい。
・主イエスは「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(ヨハネ16:22)と最後の晩餐の時に約束してくださった。復活はその約束の実現である。
・復活のイエスと対峙したトマスは、触れることもなく「わたしの主、わたしの神よ」と賛美・礼拝することしかできなかった。しかしそれはヨハネ共同体の信仰告白でもあった。
トマスには信じられない事だった、十字架につけられて、ちゃんとお墓に葬ったイエス様が、再びみんなの所に来てくださったなんて。
イエス様に従っていた時は、本当に楽しかった。病気の人を治してもらった人たちが喜んで家に帰る姿を見ると、自分も嬉しくなった。いつも偉そうにしている学者たちがやり込められて困った顔をするのを見た時は、少し誇らしくもあった。どんな人がやって来ても優しい笑顔で言葉を掛けておられるイエス様をみていると、自分まで優しくなれる気がした。3年間、「この人こそ、新しい王様になって、私たちを助けてくれる人に違いない」と信じて従ってきたのに、捕らえられ十字架に付けられてしまった。本当に辛かった。これからどうしたら良いか、悲しくて全く分からなくなった。それに、このままでは自分も捕まるのではないかと心配だったし、みんなと一緒に居ることも怖かった。
そんなトマスを、一緒にいた弟子たちが探していると聞いた。トマスは怖かったけど会ってみることにした。すると彼らはニコニコしながら「イエス様に会った!」と言うのだ。信じられない事だった。だから、「ボクは見ていない、イエス様の手を見て、その釘の跡に指を入れて見るまでは信じない」と叫んでいた。
イエス様に会ったとみんなが言っていた日から一週間、トマスはみんなが居る所に出掛けて行った。みんなに「イエス様に会うまで、信じないゾ」と、もう一度言おうとした時だった。イエス様が目の前にお出でになったのだ、ドアはカギを掛けたままだったのに。「私の手を見てごらん。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、イエス様はトマスに話しかけられた。驚きと恐れで動けなくなっていたトマスだったが、あの優しい笑顔のイエス様に再び会うことができた喜びが、心の底からこみあげてくるのが分かった。「私の主、わたしの神よ」、迷っていたことも、疑っていたこともすべて忘れて、トマスはイエス様に向かって、そう賛美するだけだった。
「信じる者になりなさい」、イエス様はここにいる私たちにも、そう呼び掛けてくださっています。
(執筆: 中島康文牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)115番「イースターのあさはやく」、改訂版88番「イースターのあさはやく」。
二人一組になって、一人の人が支える係、もう一人が倒れる役目になりましょう。
倒れる人は相手の方を見ないで背中からゆっくり斜めになります。相手が受けとめてくれるという信頼をもてれば、きっと倒れることができます。
(Lv.1)他のお弟子さんが「わたしたちは主を見た」と言ったのに、信じなかったお弟子さんは誰でしょう?(答え:トマス)
(Lv.2)なんで彼は、信じなかったのでしょう(答え:自分は復活したイエス様を見ていないから)
(Lv.3)26節、8日前って、なにがあった?(答え:部屋にこもっていた弟子たちが復活の主と出会った)
(Lv.4)8日前と26節、何が同じで何が違うでしょう(答え:同じこと→弟子たちが部屋に篭り扉に鍵をかけていたこと/違うこと:8日前はいなかったトマスがいたこと)
(Lv.5)その弟子は「私の主、私の神よ」と口にしています。このように、神様・イエス様をどう信じるかを口にすることを、教会では何と呼ぶでしょうか。(ヒント:(大人の)礼拝の中に、その項目があります)(答え:「信仰告白」)
・「信じること」と「理解する」ことの違いは何でしょうか。
・私たちはどんなことによって「信じる者」になることができるでしょうか。