イエスさまは十字架の上で、神さまに見捨てられたと叫ばれました。私たちも、お友達に裏切られたり、心ない言葉を言われた時、心が潰れるような思いになります。そのような思いになる時、イエスさまはそこにいてくださるのです。
・あまりにも長いイエスさまの「受難」の出来事が描かれています。ベタニアで香油を捧げられる場面、ユダの裏切り、聖餐の出来事、ペテロの裏切り、ゲッセマネの祈り、民衆の裏切り、ピラトの尋問、三本の十字架、イエスさまの葬りなど、どの箇所でもお話はできると思います。
・ここでは「主題聖句」を中心に、イエスさまがユダに、ペトロに、民衆に裏切られ、ついにはそれを神さまに見捨てられたと叫ばれた点を中心に作成します。
・十字架の刑は、当時の死刑執行の中でも、その残虐性のゆえに、最も重い刑罰でした。なぜなら、十字架の刑では人は即死することはなく、何日も痛み、苦しみながら死を迎えなくてはならないからです。ローマ帝国への反逆者にのみ執行される刑でした。
今日の聖書は、イエスさまが十字架につかれて、とうとう息を引き取る場面が描かれていました。十字架という刑罰は、当時の罰の中では最も重い処刑方法でした。十字架についても、すぐに息を引き取ることはなく、何時間も、時には何日も、十字架の上で痛み続け、苦しみがあるからです。
そもそもなぜイエスさまは、こんなに苦しい思いや、痛い思いをなさって、そして死ななくてはならなったのでしょう。思い出したいのです。イエスさまは、困った人がいたら手を貸してあげて助けてくださる方でした。病気の人がいれば癒やしてあげ、目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにしてくださる方でした。イエスさまは人を愛する人だったのです。イエスさまは何か悪いことをしたのでしょうか。
そうです。イエスさまは十字架につけられて死なられるような悪いことは何一つなさっていないのです。ではなぜイエスさまは十字架につかれたのか。それは私たち一人一人のためでした。イエスさまは、十字架につかれる前に、たくさんの人たちに裏切られました。お弟子さんの一人、ユダさんに、そしてペトロさんに裏切られました。最後には、たくさんの人を愛して、助けたのに、その人たちにも裏切られました。
私たちも、お友達と思っていた人に突然、いじめられたり、傷つけられる言葉をかけられることがあります。そういう時、私たちはお友達に裏切られたと感じることでしょう。私たちはいじめられたり、傷つけられた時、私たちは目の前が真っ暗になってしまいます。イエスさまもそうでした。だからイエスさまは十字架の上で、「どうして、どうして神さま、私をお見捨てになるのですか」と叫ばれたのです。
私たちも、そういうときは必ず叫びたいと思うのです。自分に悪いところがあったのではないかとか、自分に問題があるからかもと苦しい思いや、悲しい思いを閉じ込めてはなりません。あなたには、何も悪いことはないのです。だから、「助けて!」とお父さん、お母さん、そして身近な人に叫びましょう。イエスさまも、神さまなのに叫ばれたのです。どうして私たちが叫んではいけないのでしょう。「助けて!」と私たちは叫んでいいのです。
(執筆: 滝田浩之牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)37番「じゅうじかのうえの」、改訂版83番「いばらのかんむりかぶせられ」。
・用意するもの:氷、タイヤや積み木など重たいもの、釘や松の葉など少し尖がっているもの
①イエス様が受けた苦しみはどんなものがあったか話し、振り返る。
②釘の痛み…氷を10秒くらい握ってみる
いばらの冠…松の葉など尖っているものを優しく頭につけてみる
十字架を運ぶ…タイヤに紐をつけ、引いて運んでみる、リュックに重りを入れて運んでみる
他に思いつくものがあれば、それぞれ加えてください。
・イエス様は私たちのためにたくさんの苦しみを味わってくださいました。
・お友達に嫌なことをされた時、やめてと言えていますか?
・困った時は、必ず「助けて」と言えていますか、言える人が身近にいますか?