礼拝は神さまのサービス(奉仕)
・4つの福音書のすべてに取り上げられている「宮清め」と呼ばれる箇所です。しかし共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)はイエスさまのエルサレム入城の直後、つまり受難物語の冒頭に、この出来事が描かれるのに対してヨハネではイエスさまの宣教活動の中での出来事として記されています。その意味では4章のサマリアの女性との出会いにおける「霊と真理をもって」する「まことの礼拝」というテーマを念頭に置くことができます。
・神殿の境内において、神殿に対する犠牲の動物を遠くから連れてくる人が、手元にある動物を売って銀にして、この銀を持って神殿の境内で再度、必要な捧げ物を購入し捧げるということは、すでに一般的に行われてきたことでした。ただし神殿の境内ではユダヤの貨幣に交換する必要があり、そこで手数料が取られて両替されていました。
・当時の人たちにとっては当たり前のことでしたが、イエスさまは神さまに動物を捧げることを通して神さまの愛を得られるかのように教えていた、当時の宗教指導者たちに対して、神さまの愛が一方的に神さまの方から与えられるものだという神さまのみ心が人々に届かないことに対して、深い怒りを覚えられたのです。
さて、今日の聖書の中でイエスさまは、私たちがびっくりするようなことをなさっています。いつもの穏やかで、やさしいイエスさまではなくて、縄で鞭をつくり、羊や牛を追い出し、お金を撒き散らし、台を倒す、とても乱暴です。どうしてイエスさまは、こんなにお怒りになっているのでしょうか。
過越祭というのは、当時のユダヤ教にとって、とても大切な行事でした。神さまが、ユダヤの人たちを守ってくださったことを感謝するお祭りでした。けれどもいつの間にか、私たちが神さまに捧げ物をすることを通して、神さまが私たちを守ってくださるという行事に変わってしまったのです。イエスさまは、どうしても、そのことをお赦しになることができませんでした。
なぜなら神さまの愛を、私たちはお金や、いい事をすることで手に入れることはできないとイエスさまはお考えだったからです。そうではなくて、むしろ神さまは、まったく見返りがなくても、私たちを大切にしてくださる方だ、そのことを伝えるためにイエスさまは私たちのところに来てくださったのです。
礼拝のことを、英語でサービスと言います。サービスという言葉は、奉仕という意味です。大切なことは、私たちが神さまにサービスすることが礼拝ではないのです。そうではなくて、神さまが私たちにサービス、奉仕してくださる、それが礼拝なのです。私たちは、ただ、そのように奉仕してくださる神さまの愛を受け取ることが大切なのです。
イエスさまのお怒りは、だから、私たちにも向けられています。私たちが、心のどこかで、「自分なんてイエスさまに愛して頂けないのではないか」と心配になるときに、イエスさまは私たちの心に呼びかけてくださるのです。「そんなことを言ってはいけないよ。あなたは私にとって、とってもとっても大切なものなのだよ。自分のことを大切にしなさい」と。このイエスさまの呼びかけを大切にして、新しい一週間を元気に過ごしたいと思います。
(執筆: 滝田浩之牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)119番「やさしいめが」、改訂版114番「やさしいめが」。
・用意するもの:コイン(紙で作った手作りのお金でもよい)、品物(ぬいぐるみ、お菓子など用いてもよい)
①買い手の子どもはコインをもらう。売り手(教師でもよい)は品物をひとつ1コインで売る。
②買い手の子どもが買い物をする。
③買い物が終わった子どもは、隅に集まって全員買い終わるまで待つ。
④時間があれば、買い手の子どもは品物を売り場に戻し、売り手と買い手を交換する。
・買い物をする際はお金を払ったら対価(モノ)をいただくことができます。
・けれど、イエス様の私たちへの愛は無償のものです。
そんなイエス様の愛に応えられる私たちでいられたらいいですね。
・イエスさまのお怒りの本当の意味はどのようなことだったでしょう。
・イエスさまの、このような愛に包まれていることを知るとき、私たちはどのようなことができるでしょうか。