イエスの宣教である「神の国」がはじまっていることとはどういうことなのかを知る。
・「神の国は近づいた」と宣べ伝えるイエスの宣教は、ここでは権威ある者として教えること(2:22)、病人を癒すこと、そして悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出すことなどとセットで語られている。
・「神の国が近づいた」とは、「神の王としての支配がはじまっている」ということである。権威ある者として教えること、病人を癒すこと、悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出すことなどはすべて、神の国が近づいたという福音が、人々に何をもたらすのかという具体的な証しである。
・シモンのしゅうとめの癒しから、シモン・ペトロが結婚していることが分かる。ただし、ここでは特に、シモンの妻や子どもへの言及はない。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えるイエスさまと弟子たちは、このよい知らせ、福音をもってガリラヤというところの町や村を訪れます。イエスさまと弟子たちが行くところではどこでも、イエスさまの噂を聞いて、大勢の人が集まります。それは、イエスさまが自分ひとりだけで過ごそうとするなら、朝とても早くに、弟子たちさえも気が付かないうちに、町や村の外まで行かなければならないほどでした。
カファルナウムという町に行ったときには、イエスさまたちは弟子のシモン・ペトロの妻の実家に泊まったようです。そこではしかし、ペトロのしゅうとめ(義理のお母さん)が病気で寝込んでいました。イエスさまはそばに行き、手を取って彼女を起こします。すると、彼女は元気になりました。それは、イエスさまと弟子たちのお世話をすることができるほどでした。みんなはおそらく、病気だったのだからそのまま休んでいたらいいのにとか、男の人たちも、彼女を休ませてあげるべきだったと思うことでしょう。そしてそれは、とてもよいことです。しかし、ここで聖書が強調したいのは、イエスさまの癒しの力がどれほどのものだったのかということです。つまり、ペトロのしゅうとめは、いつものように生活できるほど、元気になったのだということを、聖書は伝えようとしているというわけです。同じようにして、イエスさまは、町中の人たちを癒します。その中には、怪我をしている人もいたでしょう。病気だという人もいました。そして、悪霊、汚れた霊にとりつかれたという人もいたのです。しかし、すべての人がイエスさまによって癒されました。元気に、本来あるべき姿になったのです。
イエスさまがみんなのところに来て、その手をとってくださるとき、怪我や病い、そして、みんなが恐れるような何かがあったとしても、それらはすべて、イエスさまの前にその力を失います。みんなを脅かし、言うことを聞かせようとするような力を失います。だからみんなは、困ったことや心配なことがあっても、このイエスさまが一緒にいてくださるから、安心していいのです。アーメン。
(執筆: 高村敏浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)119番「やさしいめが」、改訂版131番「かなしいことがあっても」。
「イエス様にならって、宣教するものとなりましょう。しかし、宣教するには体力・知力・行動力が必要です。みんなで力を合わせて、ミッションをクリアしましょう。」
①じゃんけん:リーダー(教師)に全員勝ったらクリア
②リーダー(教師)が何を言っても「イエスさま」と答える。
「今日は寒いね。」→「イエスさま」という感じでつられないようにするゲーム
③今日の聖書に出てくる登場人物の名前は誰ですか?
答え:イエスさま、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、シモンのしゅうとめ
④今日のみことばを暗唱する。
「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
※「おめでとう!全員みごとミッションクリアです。イエスさまの弟子として、認定されました。自信を持って、みんなタラントを生かして宣教の働きに励みましょう。」
※賞状やメダルをあげても良いですね!
・みんなには、どんな不安や心配がありますか。もしできるようなら、分かち合ってみてください(最後に、一緒にお祈りしてみましょう)。
・みんなは、どういうときに安心しますか?そこから、イエスが癒し手として一緒にいることはどういうことかを考えてみましょう。