イエスが弟子という形で仲間を得たことを知り、いまでも私たちがイエスから「わたしについて来なさい」と弟子になることへ招かれていることを聞く。
弟子となった4人が、仕事も家族も手放して従ったことは素晴らしいことである。しかし、イエスに従えばそれなりのメリットがあると期待したから従ったと言うこともできる。後に「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)と語ったように。それゆえ、イエスが捕らえられた時に、彼らは逃げた。しかし、復活のキリストとの出会いが自分の救いを願っていた信仰者から、他者の救いを願い働く弟子へと変える。人間を取る漁師とは他者の救いのために祈り歩む人のことである。
・イエスは2組の漁師に対して、「ご覧になった」(16節)、「ご覧になると」(19節)と、まずその眼差しを向けている。
そして、「言われた」(19節)、「お呼びになった」(20節)と声をかける。それぞれのイエスの働きかけがあり、初めて「従った」(18節)、「ついて行った」(20節)という漁師たちの決断と行動が導かれる。
・最初の弟子となった4名の名前の意味は、シモン(神は聞かれた)、アンデレ(男らしい人)、ヤコブ(かかとを握る者)、ヨハネ(主、恵みたまえり)である。
イエスさまは湖で働く漁師さんに声をかけて、仲間をつくりました。仲間たちは弟子と呼ばれイエスさまと一緒に過ごし、その話されることを聞きました。また病気や苦しみを抱える人がイエスさまによって元気にされるのを見ました。そしてやがてイエスさまを真似して話しをし、働く人になりました。
宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」という詩を知っていますか。「雨にも負けず、風にも負けず」と始まる詩はこう続いて結ばれます。「東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼうと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういう者に 私はなりたい」。
この「そういう者」にはモデルがいるそうです。その人、宗次郎さんは小学校の先生をしていましたが、イエスさまを信じていたことで意地悪をされ先生を辞めさせられてしまいます。さらに娘さんも意地悪をされて9歳で亡くなるという悲しみを味わいます。それでもイエスさまを信じることやめないで、町のためにボランティアをし、仕事の帰りには病気の人を見舞いました。宗次郎さんはイエスさまがしたように語り、イエスがしたように生きたのです。その姿に心を動かされて「そういう者に私はなりたい」という詩が生まれたそうなので、この詩にはイエスさまの姿があるのだなと読むたびに思います。
イエスさまに呼ばれた漁師たちは「すぐに」網を捨て従いましたが、大切な家族や仕事をそのまま投げ出すなんて簡単にできることではありません。また宗次郎さんのイエスさまを信じる姿に心を動かされて「そういう者」になりたいと考えたとしても、自分にはとてもできないと諦めてしまいそうになります。でも、もしなれるとしたら、それは自分がなりたいと思う前にイエスさまの方から「ついてきなさい」と呼んでくださるからです。たくさんの働きができそうだからとか、優しい心の持ち主だからとか、信じる強さがあるからではなくて、イエスさまがそうしたいとあなたを呼ぶからです。
(執筆: 安井宣生牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)49番「しゅイエスのひつじ」、改訂版52番「しゅイェスはでしたちを」。
①イエス様に扮したCS担当者が「〇〇さん 私についてきなさい」と子どもの名前を、1人ずつ呼ぶ。
②子どもは「はい、私はイエス様に、ついていきます」と言い、イエス様の後ろにつきます。
③順番に呼んでつながったら、皆で部屋を一周します。
④CS担当者
「いつでもイエス様に呼ばれています。いつでもイエス様についていく私達です。」
・イエスの弟子になるとはどんなことだと思うか話してみよう。
・どうしたら自分は弟子になれると思うか話してみよう。