救い主との出会いの喜びを伝える。
今回はシメオンだけを取り上げた。シメオンが救い主イエスとの出会によって、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」(救いを見たから、もう死んでも構わない、との思い)と言えるほどの感動を、少しでも子どもたちに伝えられたなら、と思う。
シメオンの賛歌(ヌンク・ディミティス)は、ルーテル教会の毎週の礼拝の中で唱えられている。資料によると、ルーテル教会として礼拝式の中で採用されたのは、1531年スウェーデンのルター派教会で用いられたのが最初のようだ。それまでは、「古くは教会の終課で歌われてきました。『主よ、あなたはみことばのとおり、僕を安らかに去らせてくださいます。』と歌い、一日の営みを感謝して締めくくりました。そのため、ローマ・カトリック教会や英国国教会は『シメオンの賛歌』を主日礼拝ではなく、一日の終わりに行う終課において歌」(『式文ハンドブック』 日本福音ルーテル教会式文委員会)っていたようだ。個人的には、礼拝の恵みに与り、み言葉によって救いの確かさを確認した私たちが、礼拝堂をさる時には、あのシメオンのように、「主よ、あなたの救いを見た私たちです、いつ身許に召されてもいいです。」といった思いを胸に帰途につけることは幸いなことだと思っている。
むか〜し、むか〜しのことです。イエスさまがお生まれになった時代に、「シメオン」というおじいさんがいました。この人は、大変信仰熱心な人でした。ですから、神さまもこのシメオンさんに、救い主を見るまでは死ぬことはないよ、と約束してくださっていたのです。
このシメオンさん、来る日も来る日も神さまを礼拝する神殿に出かけました。一日も早く、救い主を見たかったからです。
どんな方だろう。救い主というくらいだから、きっと立派な人に違いない。昔の偉大な王さま、ダビデ王のような方じゃないだろうか。背も高くて、体つきもがっしりしていて、顔も凛々しくて、男前(ハンサム)に違いないだろう。そんなふうに救い主の姿を想像しては、シメオンさんは、それこそ雨が降ろうが、雪が降ろうが、暑い日だろうが、一日も休むこともなく、神殿に通ったのかも知れませんね。
そんな日が、何日も、ひょっとすると何年も何十年も続いたのかも知れない。これまでも、それらしい人がいたと思う。おや、ひょっとしてこの人じゃないだろうか。背も高いし、体つきも立派だし、何よりも王様のように凛々しい、って。でも、神さまはシメオンさんにしか分からない小さな声で、「違うよ」っておっしゃった。
あ〜、いつ救い主にお会いすることができるんだろう。さすがのシメオンさんも正直、諦めかけていたかも知れないね。そんなある日、赤ん坊を抱っこしたヨセフさんとマリアさんがやってきたんだ。最初は、いつもの「お宮参り」の家族か、と思ったのかも知れない。しかし、神さまが教えてくださったんだ。その赤子こそがあなたが会いたがっていた救い主なんだ、って。最初は驚いたかも知れないね。だって、想像していた救い主と全然違っていたから。しかし、神さまに教えられて、じっとイエスさまを見つめると、なんとも言えない感動に心が包まれたんだ。もう死んでもいい、って思えるくらいに、ね。
これって、すごいことじゃないかな。救い主に出会えたから、もう死んでもいい、って思えることって。救い主との出会いは、これほど素晴らしいことなんだ。
(執筆: 浅野直樹牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)25番「みつかいくだる」、改訂版75番「きけ、てんしのうた」。
用意する物
画用紙、鉛筆やペン
•神様に向けて1年を振り返り、感謝したいことや新年の目標など自由に書いてみよう。
•教会でお世話になった方や、おうちの人、お友達に向けて書いても良い。
また、教会へ来られるすべての方へ向けてみんなで大きな感謝状を作るのも良いでしょう。
自分が想像していたような救い主じゃなかった場合は、どうする?