イエス様こそが、私たちにとってかけがえのない存在であることを知ろう。
・主人(神様)が造られられたぶどう園(神の国)の話です。神様からの恵みを分かち合わず、預言者たちを、そして独り子イエス様を尊ばなかった人々に、イエス様は厳しく語ります。
・この世界は、神様に立ち帰らない人間(の罪)の故に、残酷な日常が広がっていることも確かです。しかし、人の目には絶望しかなくても、イエス様が隅の親石となって神の国の土台となってくださいます。私たちは、このイエス様に繋がって、神様の恵みを分かち合い、平和(愛)の実を結ぶ群れとされていきます。
・ぶどう園は、神の国(天の国)のイメージです。現代でも同様ですが、ぶどうを育てるためには骨の折れる大変な作業が必要でした。それ故に、その収穫は心からの喜びでした。
・「隅の親石」が何を示すかは、土台としての隅石として理解する説明や、アーチ状の構造の要石として理解する説明などがあります。伝統的には土台として解釈することが多いようです。ただ、いずれの立場でも、ここでは、人間の目に神聖な国を建てようとしていた指導者たちの捨てたイエス様が、真の神の国を建てる親石となられたことに注目すると良いでしょう。
夏の朝早く、ぶどう園に入るとあることに気付きます。それは、とても甘い香りがするということです。沢山のぶどうの実がなっているからです。そんな、甘くて美味しいぶどうですが、作るのはとても大変です。まず、畑を耕して、水はけをよくする溝を掘って、柵を作って動物が入ってこられないようにします。それから苗を植えますが、すぐに実はなりません。何年か待つことだってあります。丁寧にお世話をして、ようやくぶどうは実をつけます。
ぶどうのように、この世界も、神様が丁寧に造ってくださいました。平和な世界となるように整えてくださり、そこに人間は暮らすようになりました。ぶどうの実のように、待ちに待って実る平和は貴重なものです。でも、人は、神様の言うことを守らないことがあります。自分勝手なことをしてしまうことだってあります。だから、美味しいぶどうのような、平和の果実を、みんなで分かち合うことができなくなってしまうのです。
でも、そんな私たちのところにイエス様が来てくださいました。イエス様はぶどうの樹の幹のように私たちの真ん中に立って、枝である私たちをつなげてくださいます。この教会堂の建物にたとえるなら、イエス様こそが、私たちの土台となってくださったのです。
イエス様は、私たちの人生の土台となって、ずっと、ずっと私たちを支えてくださいます。イエス様につながる私たちは、自分では気づかないかもしれないけど、キリストの平和の実を結ぶ群れになるようにイエス様が導いてくださっているのです。もしかすると、イエス様につながるみんなからも、甘い香りがしているかも知れませんね。
(執筆: 小澤周平牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)61番「いつくしみふかき」、改訂版 130番「いつくしみふかい」。
・聖書にはどんな果物や果物の加工品が出てくるかな?それは何か意味があるのかな?
・聖書の時代と現代のぶどう園を比較してみよう。