他者の過ちを赦すことは簡単ではありません。まして自分に対する仲間の過ちはもっとそうでしょう。ではどうすれば良いのか、そのヒントをイエス様の教えからつかもう。
私たちの考える「仲間への赦し」はせいぜい「何回までですか」という赦しの回数にとどまりがちです。それは本当の赦しではないとイエス様は言われます。どうしてか? それをペトロに教えるために、イエス様は「仲間を赦さない家来のたとえ」を話されたのです。一万タラントンの借金をした家来が、主人から借金を帳消ししてもらったのに、自分に借金している仲間の返済猶予の懇願を無慈悲にはねのけたのです。借金を帳消しにしてやることが「憐れみ」の意味になっています。
重要なことは「一万タラントン」という金額です。これを今日に換算するならば、到底返済できるような額ではないことが実感できます(豆知識参照)。それが免除されたのであれば、仲間の借金を免除することは何でもないようなことに思えるはずなのです。ペトロのように「七回まで赦せばいいのですか」などという言葉ではまったく足りません。
もうひとつの重要なことは、子供たちがイエス様に「一万タラントン」というあまりにも高額な借金をしているということを実感できるのかという問題です。大人にとってもちょっと難しいことです。ただここで押さえたいことは、今日のこの時点ではたとえを理解しなかった(自分が一万タラントンもの借金をしているということを)ペトロが、十字架のイエス様を裏切るという罪を犯した時、このたとえの意味を理解したということです。ご自身の命を差し出してまでも、ペトロの大きな罪(借り・借金)をすべて赦し、帳消しにしてくださったイエス様のこの上ない大きな憐れみを伝えたいものです。
「タラントン」とはギリシャで用いられた通貨で、6,000ドラクメ(ローマの通貨ではデナリオン)に相当したそうです。1デナリオンは労働者の1日の賃金でしたから(マタイ20:1~)、例えば今なら8,000円くらいとしましょう。すると1タラントンは4.800万円になります。これだけでも大きな金額ですが、まして一万タラントンとなると、手元の電卓からはみ出すほどの額になるのです(4,800億円)。
タラントンのたとえは他の福音書には書かれていません。このマタイによる福音書にだけある実にユニークな話なのです。
弟子のペトロがイエス様に質問しました。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦しべきでしょうか。七回までですか」と。「兄弟」と言うのは本当の兄弟ではなく、「親しい仲間」のことです。弟子たち、あるいはイエス様の仲間たちのことだったのでしょう。ペトロは仲間の誰かに意地悪されたのかもしれません。悪口やうそをつかれたのかもしれません。でもペトロは我慢して、何とかそれを赦してやることにしたのでしょう。しかも一度や二度ではなかったのだと思います。だからペトロはこの質問をしながら、「自分は仲間の罪を何回も赦してやった」ということをイエス様に知ってもらい、ほめてもらいたかったのでしょう。
ところが、ペトロの予想していたこととまったく違う答えをイエス様はされたのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのです。「七の七十倍」は490になります。ペトロはびっくりしたことでしょう。いくらペトロでも、そんなに赦すことなどできないからです。いや、そんなことはだれにもできないのです。そこで、イエス様は天の国のたとえを話されました。
一万タラントンのお金を王様から借りた家来のたとえです。一万タラントンとは数えきれないほどの大変なお金で、オリンピック・パラリンピック競技場(新国立競技場)が三つ造れるほどのお金です。とても返すことができないお金を王様から「返さなくていいよ」と言われたのですが、その後に、自分にお金を借りていた人の「お金を返すのをもう少しまってくれ」という頼みを聞くことができなかったのです。あろうことか、牢に閉じ込めてしまいました。それを耳にした王様は大変に怒ってしまい、家来を牢の中に閉じ込めてしまったというたとえでした。
王様はイエス様のことです。家来はペトロのことのように思えるのです。ペトロは仲間を「七回まで」は赦すつもりだったようですから、たとえの家来とは違うように見えるのですが、イエス様から見ればペトロも家来と変わらないのです。仲間とはペトロが「兄弟」と呼んだ人たちのことです。仲間の借金は、家来の主人への借金に比べれば、比べものにならないくらいに小さな額です。自分の莫大な借金を棒引きにされたのであれば、仲間のわずかな借金を同じよう棒引きするのが当然なのです。
ペトロがイエス様のたとを本当に理解するまでにはもう少し時間が必要でした。ペトロはこの後、イエス様の十字架の際には、イエス様を裏切るというとんでもない大きな罪を犯すことになります。どれだけ頑張っても返済できないほどの借金をイエス様にしたのと同じです。しかしイエス様はペトロの大きな罪をすべて帳消しにし、赦してくださいました。そこでペトロははじめてイエス様の大きな憐れみを本当に知ったのです。大きな憐れみを受け、その慈しみを本当に知った人が、今度は仲間を憐れむことができるのです。ペトロが仲間を憐れむことができるようになるにはもう少し時間が必要だったのです。
(執筆:立山忠浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)57番「しゅよわたしをあわれみ」、改訂版34番「キリストのへいわ」。
<用意するもの>
筆記用具、紙、袋
①自分の中で、許せなかった場面を思い出し、紙に書いていく。何枚でも書いて良い。
②書き終わったら、ひとつずつ読み返し、読んだらグシャッと丸めて袋へ入れる。
③全て読み終えたらさらに袋の中を潰す。
④袋から紙を取り出し、ひとつずつ紙を広げる。
その紙はあなた方の「心」です。「憎しみを持った心」は、押し潰せば潰すほど、ぐしゃぐしゃになっていきます。これが一生続くとしたら、どんなに悲しいことでしょう。
そういう心にならないためには、「憎しみ」を取り除かなければなりません。そのためには、「ゆるす」ことが必要です。
神様がそうしなさいと教えてくださったように、互いが許し合うことが必要なのです。
・聖書にしばしば出て来る貨幣(デナリオン、タラントンなど)をみんなで調べてみよう。聖書の後ろにある資料(53ページ以下)が参考になることでしょう。
・ペトロと他の弟子たちの十字架の際の裏切りについて学んでみよう。それだけでなく、ペトロが裏切ったときに、イエス様がペトロをじっと見つめたと書いてありますが(ルカ22:61)、その時のイエス様の見つめた目はどんなまなざしだったのだろか、みんなで話し合ってみよう。