教会のもっとも小さな姿、もっとも大切なことを学ぼう。
福音書の中で「教会」という言葉が出て来るのはマタイによる福音書だけです(三ヵ所)。しかも三つの中の二つが18:17に記されているのですから、ここはとても重要なところです。ただ、イエス様が活動されている時にすでに、今の私たちが連想するような教会があったわけではありません。整えられた今の教会を川に譬えるならば、川の源流と言えるようなもっとも小さな教会の姿を表しているのがこの箇所です。実に素朴な教会の姿です。しかしそこに教会のもっとも大切な姿が表現されているのです。
なお、18:15~17には教会内の「兄弟への忠告」について記されてありますが、そこも説教作成に含めると説教が散漫になる恐れがありますので、敢えて18:20に絞って作成することが許されることでしょう。
「教会」と訳されている言葉はエクレシア(ギリシャ語で)です。それは「呼び集められた人々」という意味を持っているようです。「教会」という言葉からは、どうしても「教える会」(あるいは「学ぶところ」)というイメージが拭えませんが、本来はそうではないのです。そう言われれば、教会を造り出した弟子たちも、イエス様に「私に従って来なさい」と呼ばれて、その招きに応えて集められた人々でした。
皆さんは「教会」と言うと、どういうものを思い浮かべますか。まず自分たちの教会をきっと頭に浮かべることでしょう。次に、「どこの教会が一番立派だと思いますか」とか「どこの教会が本当の教会だと思いますか」などと聞かれればどうでしょうか。クリスマスやイースターの時期になると、テレビで礼拝の様子が放映されることがあります。その時に映し出される教会の多くが、とても大きな教会であり有名な教会です。例えば、イタリアのローマにあるバチカンの教会です。あるいはパリにある教会などです。確かにそのような教会は立派で、礼拝堂に入るだけでおごそかな気持ちになるように思えて来ます。建物が立派で、有名な教会が「本当の教会」ではないかという思いがして来るのです。
しかし、イエス様の教えはそうではありませんでした。今日の聖書の話には「教会」という言葉が二回出て来ました。教会についてイエス様が語ってくださった珍しいところですが、教会で何が一番大切なのかを教えてくださっているのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われたました。「二人または三人」ですから、とても少ない人数です。ある教会の教会学校には「二人または三人」だけが集まっているのかもしれません。でもイエス様は「わたしもその中にいるのである」と言われました。たくさんの人が集まっているところ、立派な礼拝堂のあるところにだけ、「わたしもその中にいるのである」と言われたのではありません。もちろん教会学校に、あるいは大人の礼拝にたくさんの人が集まっている時の讃美の歌声は大きく、礼拝もとても立派に思えるのです。それはすばらしいことです。でも教会にとって一番大切なこと、絶対に忘れてはいけないことは、二人あるいは三人であったとしても、「イエス様のみ名によって祈ります」という祈りを唱える仲間がいるならば、必ずイエス様が一緒にいてくださると約束してくださったのです。そのお姿は見えませんが、でも確かなのです。
今日のイエス様の教えを励みとしたいものです。他のところでもイエス様は、礼拝を行う時にもっとも大切なことは、ま心から礼拝することだと教えてくださいました(ヨハネ4:23)。ま心から讃美歌を歌い、祈りを神様にささげ、イエス様の教えに耳を傾けることが一番大事なことなのです。それを忘れずに、それを一番大切にする教会であれば、イエス様はきっと共にいて、喜んでくださっていることでしょう。
(執筆:立山忠浩牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)94番「あっちのいえから」、改訂版16番「イェスさまいるってほんとかな」。
<用意するもの>
風船、コーン
①2人組を作り、並ぶ。
②2人で向き合い、肩を持つ。
胸または頭に風船を挟み、スタート。
③風船を落とさないように、進み、コーンを曲がって、次の人に風船を渡す。
※小さいクラスには胸で風船を挟むとやりやすい。大きいクラスには頭で風船を挟むと難易度があがる。
※リレー形式にし、対戦しても楽しい。
・「教会」という言葉が出てきました。皆さんの教会について知る良い機会です。皆さんの教会はいつできたのか、そのころはどんな礼拝堂だったのだろうか、教会学校はどんなことをしていたのだろうか、みんなで語り合ってみましょう。
・教会でなくてはならないことはどんなことでしょうか。今日のイエス様の教えから学んだことを話し合いましょう。