良い種か毒麦か、イエスさまはその判断を急ぐことはしませんでした。そして「育つままに」されました。
毒麦がどれだけ良い種の成長を妨げようとしても、成長させてくださるのがイエスさまであれば種の成長は確かなのです。
自分が良い麦でありたいと思っても、良い麦であり続けること(良い麦だけを心に持つこと)は至難の業です。私たちは自分の心に毒麦が生えているか、また他者の心に毒麦が生えていないかに関心を持つのではなく、良い麦を養い育ててくださる神さまに信頼したいのです。
マタイ福音書が書かれた時代(最初期の教会)には、教会の中に毒麦が生えていると言わざるを得ない苦しい状況があったのでしょう。イエスさまの語られた譬えは、毒麦は眠っている間に誰かが種を混在させたのであって防ぎようがなかったと教会を擁護しつつ、一方で教会を構成する一人ひとりには良い麦か毒麦かを判断することは出来ない(神の専権事項)としています。
小学生の頃、帰りの会である女の子が言いました。「今日、〇〇君(わたしの名前)に悪口を言われました。」クラスがしーんと静かになりました。私は顔が真っ赤になり、目には涙が溜まっていったのを覚えています。声を出すと涙が溢れてしまいそうで、私は黙って下を向きました。その後のことはあまり覚えていません。
大人になって、ふと、この時のことを思い出します。「私は人に悪口を言ってしまったことがあって、そのことで傷ついた人がいた。」と悲しくなります。けれど、「いやいや、女の子が大げさに言っただけで、大したことじゃなかったはずだ。」と、私はそんなに悪くないと思う私もいるのです。
イエスさまは良い麦と毒麦(=悪い麦)の譬えをお話しされました。私たちは畑に悪い麦が生えているのを見つけたら、抜いた方が良いと思うでしょう。しかし畑の主人は悪い麦もそのままにしておきなさいと言うのです。なぜなら、良い麦も一緒に抜いてしまうかも知れないからです。
私の心に生えているのは、良い麦でしょうか?それとも、悪口を言ってしまったから、悪い麦でしょうか?
私の心には、良い麦も悪い麦もどちらも生えているのだと思います。イエスさまは、私の心に生える良い麦を成長させてくださいます。そしてイエスさまが悪い麦をも良い麦に変えてくださると信じています。
(執筆:中島共生牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)103番「どんなにちいさい」
改訂版58番「どんなにちいさいことりでも」
<用意するもの>
紙 クレヨン
みことばカード(同じものを2枚ずつ。ない場合は、同じもの2枚ずつのみことばを書いた紙を作る)
①みことばカードがない場合
・好きなみことばを1つ選んで同じ内容を2枚書く(他の人とは被らないように注意)
・悪い心、よくないことを1つ考えて1枚書く
②みことばカードがある場合
・2枚あるみことばカードを1セットとし、子どもの人数分または5セットや10セットなど年齢や時間に合わせて数セット用意する
・悪い心、よくないことを1つ考えて1枚書く
この後は、①と②同じルールです(トランプの神経衰弱と同じルール)
・カードを全て混ぜ、みことばと悪い心が見えないように伏せる
・順番にカードを2枚ずつめくる(1枚めくるごとに何が書いてあるか読み上げる)
・2枚同じならめくった人がもらえます
・めくったカードが同じものでなければ伏せて次の人へ
・悪い心のカードが出た時も伏せて次の人へ
・2枚ペアのカードをもらった人がまたカードをめくるか、次の人に順番が回るかは、カードの枚数や年齢に合わせてルールを決めてください
・私たちはどうやって良い麦と毒麦を判断するでしょうか。
・イエスさまはどうやって良い麦と毒麦を判断するでしょうか。
・私たちの心に良い麦が成長するとは、どういうことでしょうか。