イエスさまの言葉を伝える者(弟子)を受け入れるとは、水一杯を差し出すということです。つまり、特別な人が特別な方法でのみ、イエスさまの言葉を受け入れられるのではないのです。誰にでもその可能性は開かれています。
自分の立場を弟子として理解するのか、弟子を受け入れる者として理解するのかは説教作成において一つのポイントになると思います。私たちは神の言葉を受け取る者であり、同時に伝える者でもあります。
41節の「正しい者」とは「義人」を表します。パウロがロマ書3章10節において「正しい者はいない。一人もいない。」と言うとおり、私たちはどれだけ優れた人物であっても「正しい者」ではないのです。正しさの基準は神さまの側にあるのです。神さまによってのみ、私たちは「正しい(義しい)」とされるのです。
目の前に喉が渇いている人がいたら、私たちはどうするでしょう。何か飲み物を用意してあげるでしょうか?イエスさまは言います。たった一杯のお水を飲ませてくれる人は、その報いを受ける、と。報いとは、働きに応じて報酬をいただくということです。なんだか、お手伝いをすればご褒美がもらえることと似ていますね。
喉が渇いた人にお水を差し出すのは難しいことでしょうか、それとも簡単なことでしょうか。私は、難しいことだと思います。水を持って行って「余計なお世話だ」と言われたらどうしようと心配になりますし、「私じゃなくても他の誰かがお水を持っていってあげるだろう」と、私が何もしなくて良い理由を探してしまいます。ですから、目の前の困っている人にたった一杯の水を飲ませてあげることは、難しいことだと思うのです。
しかし、目の前で困っているのが家族や友達だったら、私は水を差し出してあげることができると思います。さっきまで「どうしようか」と戸惑っていた私はもういません。相手の苦しさを理解することができるからです。では、さっきまでの私と何が違うのでしょうか。私は何も変わっていませんし、目の前の人を私が知っていようと、いまいと、その苦しさは変わらないでしょう。
目の前に困っている人がいたならば、そしてそれが誰であれ、その苦しさを自分のことのように思うことができたならば、私たちは水を差し出すことができるのです。「小さな者(42節)」とは自分にとって大切だと思える人や、仲良くしたいと思う人ではありません。むしろその反対に、昨日ケンカした友達や、自分のことを分かってくれないと思う家族こそが「小さな者」なのです。たった一杯の水を差し出すのに勇気がいる相手こそが、あなたにとって大切な「小さな者」の一人です。イエスさまはあなたの行いを見ていてくださり、報い(=救い)を用意してくださると約束してくださいます。
(執筆:中島共生牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)63番「あさひ うけて」
改訂版128番「うえているひとと」
今まで、または最近、家族やお友達、先生、バスや電車の中、街で会った人など誰かからしてもらって嬉しかったことはなんでしょう?
今度は、家族やお友達、先生、バスや電車の中、街で会った人に自分が何かをして喜ばれたことがあるか話してみましょう。
話し合ったことを1つずつポストイットなどの紙に書きだしてもいいかもしれませんね。
・どんな人に「一杯の水」を差し出すことができるでしょうか。
・「一杯の水」のように、誰かにしてもらって嬉しかったことはあるでしょうか。
・イエスさまは「一杯の水」を差し出すあなたをどのように見つめておられるでしょうか。