・「いのち」との単語を聞いて、何をイメージしているかを確かめる。
・間違ったことに対し、「間違っている」と伝えることで衝突が起こる場合、どうするかを考えてもらう。
・「イエスさまのために命を失う」とは、何を示しているのだろうか。
・「いのち」は自らが持っているのではなく、与えられていることを知る。
・「神の御心」と「社会の常識」の間には深い溝(超えられない壁)がある。「神の御心」を実現しようとするとき分裂が起きるのであれば、イエスの行動を思い出す。
・34~36は、キリスト教批判に用いられることがあるが、暴力を正当化しているのではない。
・イエスに従う弟子たちと、他のユダヤ人との間に分裂がもたらされました。それは、イエスさまがユダヤ人社会に対し、「神さま従う者としての正しさ」を考えるように教えたからです。このことが「剣をもたらす」ことを意味しています。
・「得る」と訳されるギリシャ語ευρησει(ユーレィセイ)は、「見つける」と訳される言葉と同じ。
みなさんは「本来の姿」を考えたことがありますか?大人になると、「自分とは何者なのか?」と考えてしまうことがあります。そして「自分を知る」ことを求めて、悩んでしまう事もあります。「知らない」ことに「おそれ」を感じてしまうからでしょう。
聖書の中で「おそれ」という言葉が出てきます。この「おそれ」には二つのものがあるのです。一つは、聖書の最初に出てくるアダム達が禁断の実を食べた時に、神が近づき、どこにいるかの声掛けに対し「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」と答えた時の「おそれ」です。これは、神に背を向けて離れ、その審きを受けなければならない人間が持つ、恐怖という「おそれ」です。もう一つはこれと反対で、申命記4:10「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」 と言われた「おそれ」があります。信頼という絆であり、神さまから保護されている姿です。つまりしっかりと神さまに心を向けている(敬虔な)信仰を表す「おそれ」でしょう。聖書には二つの「おそれ」の意味がありますが、今日の福音書では、神を畏れるならば(信じるならば)恐怖の恐れは要らない。という事です。イエスさまは、一つ一つの出来事を司るのは、人ではなく神さまだから、一羽の雀さえ「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と、心配する必要はないと教えてくれます。
「自分を知る」ことを求めるのは、悪いことではありません。でも、自分の力だけで生きようとすれば、いつも限界にぶつかってしまいます。そんな時に、「自分を知る」限界に気づき、神さまを知ることが出来れば、素敵なことだと思います。聖書の「それを得る」は「それを見つける」と訳することができます。限界があることを怖がらないで、わたし達の髪の毛一本残らず知っている方を「畏れなさい」とイエスさまは教えてくれます。髪の毛一本残らず知っているのであれば、人間一人一人も知っていることでしょう。神さまがいつも傍にいてくださる事を忘れずに過ごしたいですね。
(執筆:室原康志牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)51番「わたしは しゅの こどもです」(1,2)
改訂版123番「わたしはしゅのこどもです」 (1,2)
絵本「3本の木」を読んで、将来の夢について考え、それを書いてみよう
用意するもの
色画用紙
マジック
•色画用紙は木の形に切っておく
•それぞれの将来の夢を木の画用紙に書いてもらう
•模造紙などに出来上がった木を貼って、それぞれの夢が詰まった森にしよう
ここに書いた夢に向かって努力することも、新たな夢を見つけて進むことも、神様はいつもそばにいて知っていてくださることに感謝して、おそれず前に進んでいこう
①「いのち」と聞いて、何を想像するか分かち合いましょう。
②神さまが教える正しさは、どんなことがありますか。周囲で「神さまの正しさ」に背いている場面があ
ったなら、どう対応しますか。
③「神さまの正しさ」と言いましたが、それは本当に「神さまの正しさ」ですか?自分の思い込みによる
「神さまの正しさ」ではないか、考えてみましょう。