・「ただで受けた」ものは何であるかを知る。
・わたし達の周りで、“ただで受け取れる”ものは何があるのか。本当に“ただ”なのかも考える。
・一人ひとりが神さまによって必要とされ、今生かされていることを感じとる。
・自分の力を他者と比較していないか考える。
・イエスが弟子を送り出したきっかけから、教会に集う人の働き(奉仕)の意味を知る。
・神さまからの恵みは、“何らかの対価”なのかを考える。
・イエスが弟子達に、何も持たせずに送り出した理由を考えてもらう。
・必要とされる場所で働くことを推奨している。「無理をしなさい」とは言われていない。
・CSメッセージをする人も、イエスから必要とされている存在である。
・福音書に記されるイエスの時代、聖書の巻物が各街道に置かれていたが、識字率は大変低く、祭司や律法学者を通してのみ、神の御言を受け取れた。
・当時、神の救いは、行為義認(律法を完全に守る者が救われる。犠牲の動物を捧げる儀式を行えば罪は赦される。等)として教えられていた。
・9:36「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」は、神の御心を聞き取って語るべく人、導く人がいない状態を表現しています。
今日の聖書箇所は、イエスさまが12人の弟子たちを選び、神さまの“ことば”を伝える動機と、その働き方を示しています。イエスさまは町や村の隅々までを巡り歩き、神さまの国のことを伝え、病気に苦しんでいる人たちを癒していました。しかし、苦しんでいる人の数があまりにも多く、飼い主のいない羊のようでしたので、イエスは弟子たちに自分の力を与え、それぞれ必要とされている
地域へ弟子を送り出します。ここで、イエスさまは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉をかけています。
十二弟子が選ばれるまでの経緯は、人間的にみて知恵のあるものが多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわでけもありません。特別な能力があったのでもなく、特別に訓練した力ある者として選ばれたのでもありません。その十二弟子にイエスさまが、汚れた霊に対する権能を与えるのです。お弟子さんが、訓練や修行に耐えて得た力であれば、その力はお弟子さ
んのものでしょう。お弟子さんが自分で得た力であれば、その力を使って商売をしたり、見返りを期待したり、その力を利用して富を得ることも可能です。
しかし、イエスさまは、何もしない、何もない弟子たちに、イエスさまの権能を授けています。だから「ただで与えられたものを、自分のものだとせずに、惜しまないで人に与える人になりなさい。」と言われるのです。
皆さんは、自分の努力によってではなく、訓練によってでもなく、特別な力を持った場合、どうするか考えてみてください。ひょっとしたら、「こんな素晴らしい力を他の人にタダで使うなんて、もったいない」と考えるかもしれません。大人になると、自分の為に使えないかいろいろ考えてしまいそうになります。ましてや、ただで手に入るのであれば、自分の都合を優先してしまうことも
考えられます。イエスさまは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と教えてくれます。神さまから頂いたものは、神さまからの恵みとして、神さまが喜ばれる使い方をしましょう。
(執筆:室原康志牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)9番「めぐみ うけて」
改訂版52番「しゅイェスは でしたちを」
•教団讃美歌503番のメロディーで歌詞を替えて歌ってみよう
「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、
ピリポとトマスとマタイたち、
ヤコブとタダイ、シモンとユダ、バルトロマイが12弟子
弟子たちは イェス様の お手伝いをしたのです
僕たちも イェス様の お手伝いをいたしましょう」
名前を覚えたら、どんな人だったかなども調べてみると面白い
①困っている人を見かけた時、どんな対応をしてきましたか?ことばをかけましたか?自分には無理だと思って、何もしませんでしたか。
②行動に移せた時・行動に移せない時に必要だったことは何ですか。
③毎日過ごす中で、困っている人がいないか探した事がありますか。その割合(時間でも可)はどれほどでしたか?困っている人が少なくなると、どんな世界に変わるのか考えてみましょう。