「主の昇天」について考える。
ルカによる福音書と使徒言行録とは、共に「ルカ」の手によるものと考えられ、「ルカ文書」と言われます。その福音書の最後と使徒言行録の最初に、同じ「イエスさまの昇天」のことが書かれています。福音書はイエスさまの宣教について書かれ、使徒言行録は弟子たちの宣教が書かれています。その間に位置する「主の昇天」は、両者の宣教を一つに結びつける役割を果たしていることがわかります。
「昇天」の出来事は別れですが、「別の助け主」によって、永遠に「共にいる」ための架け橋と言えるでしょう。
一緒にいたイエスさまが、いよいよ天に帰られる時が来ました。イエスさまとの2度目の別れになります。最初の別れは、イエスさまが十字架の上で死なれた日のことでした。お弟子さんたちは、イエスさまが捕まると、こわくなって逃げてしまいました。でも、2度目の別れの今回は、「大喜びでエルサレムに帰った」と聖書にあるように、少しお弟子さんたちの様子がちがいます。それは「父が約束されたものを送る」こと、「高い所からの力」であることを話されていたからでしょう。イエスさまが約束された力に勇気づけられた、お弟子さんたちは喜んだのでした。
一方、天に上げられたイエスさまのことを考えてみたいと思います。インターネットで自分の通っている小学校や幼稚園、家を上空から見ることができるソフトがあります。自分の家の前に立ち、次第に空に上がって行く様子は、イエスさまが天に上げられた時も、このような感じであったのではないかと思います。少しずつ上に上がるたびに、家は小さくなっていくのですが、それと同時に街並みが見えてきます。さらにあがると海が見え、やがて日本全体が見渡せるようになります。さらにあがると、アジアの国が見え、太平洋の国々、そしてもっとあがると、地球全体が見えてくるのです。こんなふうに見ていると、イエスさまが天に上げられたのは、すべての人々を見つめるためではないかと感じてきました。しかも「祝福しながら」「天に上げられた」のですから、イエスさまは世界中の人々を祝福するために、天にあげられたのではないでしょうか。お弟子さんたちと一緒にいることは、お弟子さんたちにとって嬉しいことでしょうが、それではすべての人々に会うことができません。祝福を届けることもできません。イエスさまは、近くの人だけではなく、すべての人々が同じ祝福の中で、安心して生きてほしいと願ったのでしょう。そのために、今日私たちを祝福してくださいます。受け取った祝福を、一人でも多くの人に分け合って、イエスさまのお助けをしてみましょう。
(執筆:佐藤和宏牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)119番「やさしいめが」、改訂版92番「たたえよ、このひ」。
自分の住んでいる所からずっとずっと空に飛んでいくと、どんな景色が見えてくるかな?きっと、宇宙飛行士の人が見ている宇宙に浮かぶ美しい地球が見えてくるね。
そんな話をしながら、インターネットを使ってもいいし、本を使ってもいいので、外から見た地球を見せて、それをひとりひとり画用紙に描いてみよう。
それを壁に貼り、上に「主の平和」と書いたものを掲げて展示してみるのもいいと思います。折り紙で鶴を折って飾るのも良いですね。今こそ、世界が平和でありますように…との思いをおぼえたいと思います。
可能ならばインターネットを通して、イエスさまが天に上げられる様子を体験してみましょう。
地上のレベルでは、自分や自分が知っている限られた範囲しか見えません。ですから私たちは、目に見える部分がすべてと考えてしまうでしょう。少しずつレベルをあげると、視野がそれに伴い広がります。さらに近隣諸国が見え、世界中が見え、国は違っても、同じ地球という星にみんなが生きていることがわかります。
(質問)自分の生きている場所では、自分のことだけを考えることがありますね。視野を広げて「自分の家の周りしか見えなかった時と、何がちがうと思いますか。」
(質問2)「外国が見えてきました。最初見えていた様子と、何が違ってきましたか。」「違う国に住んでいる人たちと、自分たちの間で、何が違うと思いますか、何が同じだと思いますか」
(質問3)「地球が見えてきました。地球では私たちだけではなく、いろいろな国の人々が一緒に暮らしています。どうすれば、みんなで仲良くすることができると思いますか。」など。