イエスさまが「内にいる」とはどういうことか、考える。
「内にいる」という経験や本などを見つけてみる。
20節全体を見ると「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」とあります。図式にすると、父なる神>(大なりでなく「内に」の意味)イエス>私たち>イエス、となります。興味深いのは「イエス>私たち>イエス」の部分です。イエスさまと私たちが互いに「内にいる」となっています。それはそれほど固く、深くつながっていることを表しています。
作家の灰谷健次郎さんが、本の中で子どもたちの詩を紹介しています。その一つに小学一年生の男の子の「こえ」という詩がありました。読んでみましょう。
「おかあちゃんが きをつけてねといった
ぼくは はいいってきますといった
おかあちゃんのこえが ついてきた
がっこうまでついてきた」
この男の子は一年生になったばかりなのでしょう。詩を読んでいて、初めて学校に一人で行くのが、とても不安なのだという男の子の気持ちが伝わってきました。もちろん、お母さんの声が学校まで届くほど、大きな声だったというわけではありません。迷ったらどうしよう、遅れたらどうしようなどと心配する男の子の気持ちを知って、「気をつけてね」とお母さんはやさしく声をかけました。そのお母さんの声は、まるで学校に着くまで、心配であった男の子の耳に、ずっと残っていたのでしょう。お母さんの声は、不安な男の子が家を出てから学校に着くまで、「頑張れ、頑張れ」「大丈夫」「もう少しだよ」「学校に着いたね」という励ましの声となったのでした。
今日、イエスさまは「わたしもあなたがたの内にいる」と言われていることも、これと同じようなのではないかと思います。みんなも心配な時があるでしょう。お友だとと喧嘩することもあるでしょう。一人ぼっちで寂しい時も、つまらないと思う一日もあるでしょう。毎日、楽しいのが一番って思いますよね。でも、男の子は心配だったから、お母さんの声が学校までついて来るのを感じることが出来たのです。同じように、うまくいかないなと思う時、友だちと仲良く出来なくて悲しい時、そんな時にこそ、「あなたの内にいる」というイエスさまの声が「ついてきた」と思えるほど、近くに聞こえるのではないでしょうか。
「わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。今日のイエスさまの言葉は、悲しい時、うまくいかないような時にこそ、イエスさまが一緒にいてくださることが「分かる」ということなのです。安心して、「内に」いてくださるイエスさまとともに、この一週間を過ごしていきましょう。
(執筆:佐藤和宏牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)107番「イェスさまって(1,2,4)」、改訂版34番「キリストのへいわ」。
目かくしをして言葉と音を頼りに目的の所へ行くゲームをしてみよう。
<用意するもの>
・目隠し用の布(スカーフ、バンダナなどを折りたたむ)
・すず、タンバリン、たいこなど音の出る物
・スタートとゴール(スタートから数メートル先)に目印をつける。まわりにぶつかる物がないように場所を空ける。
・ゴールに音の出る物を持っている人が立つ。
・スタートに目かくしをした人が立ち、ゴールの人が出す音を頼りに歩いて近づいて行く。右にそれたり、左にそれたりして歩いていたら「もっと右、もっと左、まっすぐそのまま」と言葉かけをしてゴール出来る様に助けてあげる。
・ゴールしたら次の人にチェンジする。
「男の子の気持ち」について話してみよう。
どんな気持ちだったと思う? 自分がこの男の子だったら?
今の自分が同じように不安になる時はどんな気持ち?
お母さん(あるいは他の誰か)の声に励まされたことはある?
「お母さんはどんな気持ちで声をかけたか」話してみよう。
お母さんは、不安な男の子をどのように思っていたと思う?
「きをつけてね」という言葉に込められた、お母さんの思いはどんなものだろう?
男の子が「おかあちゃんのこえが ついてきた」と感じたのを知った時、お母さんはどう思うかな?
「イエスさまが内にいる」って、どんな気持ちだろう。話してみよう。
イエスさまは、どういう気持ちで「内にいる」と言われたのだろう?