「わたしは道である」と言われるイエスさまの思いを知る。
「道」についての体験(自分でも、誰かのでも)を集めてみる。一般的な道とイエスさまという道を比べてみる。
「道」は、「道路」の意味のほかに、剣道、柔道、合気道、華道などに用いられる。その道を極めるために、師範から学び、練習、修行を繰り返すことが求められる。これらの道は、人の努力、能力の結果、至ることができる道である。これに対し「わたしは道である」と言われるイエスという「道」は、キリスト教信仰を極めるための道ではない。福音書において、その道は十字架への道と考えられる。イエスさまが私たちの罪の赦しのために、死なれた十字架への道であり、それは徹底的に人を愛し、仕える者の道である。人の努力や能力によるのではなく、ただ神の愛がその道を歩ませる。
私が住んでいるところは、坂道がたくさんあります。坂道を上ったら、次は下り。そんな道が続き、平らなところはあまりありません。おじいさんやおばあさんは、ふうふういいながら坂道を上っています。買い物帰りのお母さんも、上りの坂道はたいへんそうにみえます。
近所に「どうぞのいす」と看板がかかげられた、小さなベンチがあります。おじいさんやおばあさんが座っていることもありますし、小学生の男の子が座っているのもみたことがあります。「どうぞのいす」とは絵本のお話です。うさぎさんが、椅子を作って、どこに置こうかなと考えて、一本の木の近くに椅子を置いて、椅子のそばに「どうぞのいす」と看板を立てました。そこへやってきたのはロバさん。「おやなんてしんせつないすだろう」と、背負っていたドングリがたくさん入ったカゴをその椅子の上において、木に寄りかかり眠ってしまいました。そこへやってきたのはクマさん。「これはごちそうさま。どうぞならばえんりょなくいただきましょう」と、カゴのドングリを全部食べてしまいました。「でもからっぽにしてはあとのひとにおきのどく」と、クマさんはそのかわりにはちみつのびんをかごにいれていきました。そのあともきつねさん、10ぴきのリスさんがやってきて、「どうぞならばいただこう」と、ぜんぶたべてしまいます。「でもからっぽにしてはあとのひとにおきのどく」と、持っていたものをかごにいっぱい入れていきました。この絵本で気に入っているところは、そのだれもが「からっぽにしてはあとのひとにおきのどく」と、他の人のことを考えて、自分の持っているものを残していったということです。
「わたしは道である」と言われた、イエスさまの言葉を読んでいて、このお話を思い出したのは、イエスさまという道は、「どうぞのいす」に出て来る動物たちのように、誰かのことを思って生きる道ではないかと思ったからです。
イエスさまは、弱い人々、泣いている人々といっしょに歩かれました。きっとイエスさまという道を歩くとき、私たちは誰かのことを思って、「どうぞのいす」のようにやさしくなれるのです。
(執筆:佐藤和宏牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)36番「しゅイェスのみちを」、改訂版120番「しゅイェスのみちを」。
<用意するもの>
画用紙・折り紙・鉛筆・ペン・サイコロ・今までに貰ったみことばカード(もし、教会に余っているものがあったら、それを使ってもいい)
・画用紙に、自分で双六を作る。折り紙で自分の駒を作る。
スタートとゴールを決め、間に20個以上の止まる場所を作り、そのうちの3か所に「イエス様」と書く。
あとの止まるところには、自分で考えた困難だったり、得することだったり(例:宿題をしていなかったので怒られたので一回休み…、お手伝いしたので、おこずかいをもらえて2個進む…など)を、書く。
・それぞれ作った双六をみんなで遊んでみよう。(自分の作った駒を持ち寄る。)
「イエス様」のところに来たら、必ずそこで、いったん止まって、みことばカードから自分で1枚とって、そのみ言葉をみんなに聞こえるように読む。その後にサイコロを振って出た数だけ進む。
それぞれの違う双六で楽しむことができるかな?
(質問1)「あなた」が道だとしたら、どんな道でしょう? その道はどこに行く道ですか?
(質問2)イエスさまはどんな道でしょう? その道はどこに行く道だと思いますか?
(質問3)「あなた」が「どうぞのいす」の絵本に出演するとしたら、次の人に何を残してあげますか?