イエス様は、救いへ至る門であることを知る。
イエス様はヨハネ福音書の中で、たびたび「わたしは○○である」という言い方をします。たとえば「わたしは、天から降って来たパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1、15:5)などです。これらの表現は、イエスご自身がどのようなお方であるかを示すだけでなく、イエス様を遣わした父なる神がどのようなお方かや、イエス様と関わりのある人間(あなた)がどういう存在であるかを述べようとしています(「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」[15:5])。聖書には4つの福音書がありますが、そのうちのマタイ・マルコ・ルカ福音書(これらをまとめて共観福音書[きょうかんふくいんしょ]と言います)では、イエス様は実現しつつある「神の国(天の国)」を告知することが多く、ご自身がどのような存在であるかを述べることはありません。一方、ヨハネ福音書では、上記のように「わたしは○○」という自己言及の表現が繰り返されます。イエス様は、良いものを私たちに与えようとしてくださいます。良いものの与え手がイエス様であると同時に、与えてくださるものそのものがイエス様でもあります(イエス様ご自身を私たちに与えてくださる)。たとえば、イエス様はパンを与えてくださると共に、パンそのものでもあります。
・本日の箇所が含まれるヨハネ10章全体では、イエス様ご自身を表す比喩の内容がコロコロ変わり、意味が掴みづらいです。たとえば本日の聖書箇所(10:1-10)では、イエス様は、御自分を「羊の門である」と言います。ところが、(本日の箇所から外れますが)10:11では「わたしは良い羊飼いである」と言い、順番が前後しますが10章2-4節を読むと、やはりイエス様ご自身が羊飼いであるかのように語られています。イエス様は羊の「門」なのか、あるいは羊の門から出入りする「羊飼い」なのか、10章の中だけでも比喩がブレているように思えます。
・今日の聖書箇所では、門の他に、「門を通らないでほかの所を乗り越えてくる者(盗人・強盗)」(1節)、「門番」(3節)、「羊」(3節)が登場します。良い羊飼い以外に、羊飼いの役割をしようとする者が大勢現れますが、その者たちは自分の利益にならなければ羊を見殺しにします。良い羊飼い(イエス様)だけが、ご自分の命を差し出して羊を守ります。
イエス様は、ご自分を「わたしは良い羊飼いである」と言います。イエス様は、羊である私たちを飼う羊飼いです。
羊は、あまり目が良くありません。その代わりに耳が良く、羊飼いの声を聞き分けることができます。良い羊飼いであるイエス様は、羊である私たちに、「良い羊飼いは、あなた(羊)の名前を呼びます。名前を呼ばれたら、その声について行きなさい」と言います。
羊である私たちが暮らしている牧場には、ときどき泥棒がやってきます。泥棒の声に従った方が、美味しい物を食べれるような気がしたり、楽しく遊べそうに思えるときもあります。だけどイエス様は、泥棒について行ってはいけないよ、あなたを名前で呼ぶ私の声に従うんだよ、と言います。
不思議なことに、イエス様はご自分を良い羊飼いであると言うだけでなく、「門」であるとも言います。はたしてイエス様は羊飼いなのか、門なのか、ちょっと難しいけど、私たちはイエス様という門を通って、牧場へ出て行きます。
今からさらに難しいことを言いますが、イエス様が「わたしは門である」と言うとき、その門は、イエス様の十字架を指しています。十字架は、狭くて、くぐりぬけるのが大変な門です。その門を、羊の先頭に立ってまずイエス様が通りました。これは、イエス様が十字架にかかって死んだということです。イエス様に従う私たちも門を通るのですから、自分の十字架を担ぎます。でも、自分の目の前を歩いているイエス様が十字架に架けられて死んだらびっくりするし、自分も十字架にかかるのかと思ったら怖くなるよね。そんな門は、怖くて通りたくないと思うのが普通です。弟子たちも、目の前でイエス様が十字架に掛かったのを見て驚き、自分まで殺されると思い、恐れて逃げました。その結果、どこへ行ったらいいのか分からなくなりました。だけどイエス様は、死んでも復活しました。そしてあなたの名前を呼びます。「門である私を通りなさい。そうすれば、あなたは死んでも生きる」と。
(執筆:秋久潤牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)49番「しゅイエスのひつじ」、改訂版7番「イェスさま きょうもわたしを」。
スケッチブックかみことばノートを用意
羊という漢字は羊の姿から作られた象形文字 です(角のある頭と四本の足と尾)
一人の羊飼(君)のもとに集まる羊たちを「群」と 呼びました。
捧げものにする時は、その羊達の 中の一番大きなりっぱな羊をえらびました。それから美しいということば(漢字)ができまし た。 羊、群、美など羊に深く関係のある字がたくさんあります。書いてみましょう。
・あなたは、どこかに行こうとしたり、何かをするときに、自分で計画を決めたい方ですか。それとも誰かに決めてもらってそれに従う方が得意ですか(どちらがキリスト教的に良いか、という話ではありませんので、無理に「従う方が良い」と誘導しなくて大丈夫です)。
・盗人や強盗は、門以外のところから入って来ると言うけれど、それって私たちの生活だと、どういうことを指しているのでしょうか。
・イエス様の「声」に従うことが大事です。ですが、声とは何でしょうか。たとえば、「声」と「文字」の違いは何でしょうか(例:声は、録音しない限り消えてしまいます。文字は、何度も繰り返し読めます。また、声を聞くためには聞き手が語り手のペースに合わせる必要があります。文字を読むときは、読み手が自由なペースで読むことができます。つまり、声と文字とは、時間感覚が違います。声は、語り手の方に時間の主導権があります(つまり語り手のペースでしか聞くことができないということです。とはいえ最近は録音を1.5倍速で聞くことが容易になり、声においても聞き手主導になってきましたが)。文字は、読み手に時間の主導権があります(読む気がなくなった瞬間に読むのをやめ、好きな時に再開できます)。