・「心が燃えていた」とは、現代においては、大人が好きなアーティストのライブに行き、盛り上がっている状態と似ているように思います。この状態を、説教の場で聞き手である子供達にも感じさせることは、ぜひ挑戦したいですが、狙ってできることかは分かりません。
・復活があることは証明できません。ですが、信じることはできます。
・心が燃えることや、聞いて信じることは、「このように説教をすれば良い」というテクニックやノウハウを越えている部分があります。また、本日の聖書箇所は長い(13-35節)ので、ストーリーを噛み砕くだけでも説教の時間をかなり使ってしまうかもしれません。ストーリーを詳しく伝えることに重点を置くのか、語り手自身の心が燃えていた経験や信仰について語るのか、方向性を決めておいた方が、中途半端にならずに済むかもしれません。
・二人の弟子は、肉眼でイエス様を見ていたときは、イエス様だと分かりませんでした(生前のイエス様の顔をよく知っていたにもかかわらずです)。ところが復活したイエス様と出会い、聖書について語り合い、食卓でパンを渡されると、弟子たちの目が開けてイエス様だと分かりました。イエス様だと分かった途端、イエス様を目で見ることができなくなりました。
・「目」という単語は16節と31節に出てきます。復活したイエス様は、見えなくなったのであり、存在がなくなったわけではありません。今日の箇所では、肉眼で見て、語り合っているにもかかわらず、それがイエス様だと分からない心の鈍さが主題となっています。その弟子たちが、肉眼では見えなくとも復活したイエス様が共にいることで、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)という生を生きる人に変えられます。
・「わたしたちの心は燃えていたではないか」という弟子たち同士の言葉は、25節でイエス様から「心が鈍」いと言われていたことと対応します(「心」という言葉)。鈍かった心が燃やされるとき、肉眼では確認できず、客観的な証拠はないけれども、確かな何かを弟子たち(個人ではなく、2人以上)はイエス様から受け取りました。その何かとは、「イエス様の語った言葉や出来事は確かなものである」という確信です。
・二人の弟子は、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)と言い、生前のイエス様のことを、旧約で預言されているメシア(油注がれた者)ではないかと期待をかけていました。そのイエスが十字架に架けられて殺されてしまい、二人の弟子は失望しました。弟子たちは、復活したイエス様と出会った女性達からイエス様の復活を聞いていました(23節)。そして、墓にイエス様の遺体がないことも仲間を通して知らされました。この二人の弟子がイエス様の復活を知らされたことで、疑っていたかまでは分かりませんが、大きく困惑はしたでしょう。
・当時、食卓でパンを裂くのは、その食卓の主人の役割でした。ところが、イエス様は二人の弟子から食事に招かれた客の立場であるにもかかわらず、主人であるかのようにパンを裂きます。
・このエマオの物語全体は、礼拝の流れと似ています。すなわち、弟子達にイエス様が声を掛け(招き)、聖書について語り(みことば)、食事を共にします(聖餐)。その結果 弟子たちは、他の人々にイエス様のことを宣べ伝えに行く(派遣)という流れです。
イエス様は、エルサレムで十字架にかけられて死んでしまいました。弟子たちはどうしていいか分からなくなってしまいました。イエス様についていくと決めていたのに、イエス様が死んでしまったからです。弟子たちのうちの二人は、エマオという村へ行きました。
二人の後ろから、話しかけてくる人がいました。それが誰なのかは分かりませんでしたが、イエス様の話になりました。話しかけてくれた人は、そのイエス様が死んだのは、旧約聖書で預言されていた神様の救いが実現したのだと説明し、二人はなるほどと思いました。歩いているうちに日が暮れて、弟子の二人は宿に泊まり、話しかけてくれた人にも一緒に泊まりましょうと引き止めました。その人と一緒にご飯を食べているとき、彼がパンを裂いて二人に渡してくれると、弟子たちは、その人がイエス様だと気付きました。その途端に、イエス様は見えなくなりました。二人は、死んでしまったはずのイエス様が今も生きていて、自分たちのもとに現れ、いままで一緒にいたのだと気付きました。あの人と聖書の話をしていたときに心が熱くなったことを思い出し、エルサレムで落ち込んでいる他の弟子たちのもとに行って、イエス様は生きていると伝えました。
復活したイエス様は、弟子たちの目には見えなってしまいました。しかし、見えないからといって「ない」わけではありません。空気や風も、直接見ることはできないですが、あります。私は、死んで復活した人を、自分の目では見たことがありません。だけど聖書には、死んだイエス様と出会い、言葉を交わし、パンを分かち合い、心が燃える経験をした人がいると書いてあります。イエス様は二千年前に死んでしまったけど、その言葉は二千年の時を超えて、私たちにも語りかけています。
復活したイエス様は、死は恐ろしいことではなく、私が共にいると、一緒にしゃべったりご飯を食べることで伝えてくださっています。
(執筆:秋久潤牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)115B番「 イースターのあさはやく」、改訂版88番「イースターのあさはやく」。
<材料>
・色画用紙(赤)
・クレヨン、マジック
・ハサミ
お弟子さんたちはイエス様からお話を聞いたとき「心が燃えていた」と話しています。皆さんも心が燃えることを考えて見ましょう。
そして色画用紙(赤)を炎の形に切って、そこに自分の心が燃えることを書いてみましょう。
①色画用紙(赤)に炎の絵を描き、切り取ります。
②自分の心が燃えることを書きます。話してみよう
・話した時、なぜ2人の「心は燃えた」のでしょうか。
・「心が燃えた」らどんな風にしたくなるでしょうか。
・二人の弟子がイエス様だと気付いた後、なぜイエス様は見える状態のままではなく、見えなくなってしまったのでしょうか。
・「復活」という言葉を、教会以外で聞いたことがありますか。それは、何で知りましたか(ゲームやマンガでもOKです)。
・(前の質問でいくつか作品が挙がれば)その作品では、復活とはどういう出来事(あるいは場面)でしたか。なぜその登場人物は復活したのでしょうか。
・復活は本当にあるのでしょうか。私たちの身の回りに、からだの復活を経験した人がいるという話はあまり聞きません。でも、「復活がない」ということを証明するためには、地球上のあらゆる時代の、すべての人間が復活しないことを確認しなければなりません。そのため、復活がないということは、今のところ科学では証明できません。なかなか教会の場では「復活はない」とは言いづらいと思いますが、「私は復活があるとは信じられない」と誰かに言えることも大切です。子どもによっては、教会では「復活があること」にしておいて、学校などでは「復活などない」ということにしているかもしれません。あるいは、学校でも復活はあると言い、不思議な目で見られる経験をしたことのある子もいるかもしれません。分級に出席している教師(大人)が、復活についてどう思っているのかも、子どもは感じ取ると思います。「教師だから、復活を信じているという空気感を無理に出さなければ」と気にする必要はありません。先生も真剣に考えてみたけどよく分からない、どう受け止めて良いか迷っている、「教会に通っていない人に対して復活をどう語って良いかわからない」というスタンスを、子どもと分かち合うことにも意味があるかもしれません。