因果応報的な考え以外の考えがあることを知る。イエス様は、答えは過去ではなく未来にあることを教えてくれている。
長い箇所なのでトピックを絞る。過去に起こった酷かった出来事が後になって意味が与えられたこと、前向きに受け止められるようになったことは、大人なら誰でも多かれ少なかれあるのではないだろうか。自分自身のそのような体験を重ねてみると説得力が増すかもしれない。
1.イエス様の時代、身体の不自由は罪の報いと信じられていた。中にはわざわざ当事者にそれを言うラビもいたという。
2.イエス様が今日の癒しを行ったのは安息日であった。そのことが直後の箇所で問題になる。やはりテーマは先週と同じ「イエスとは誰か」
イエス様たちが歩いていると、生まれつき目の見えない人がいました。目を閉じると当たり前ですが何も見えません。音だけが聞こえます。自分に向かってボールが飛んできても、気づかず当たってしまいます。手を伸ばしたら、人の顔に当たってしまうかもしれません。目が見えないことはとても大変なことです。
弟子たちはこの人が何もできず道に座っているのを見て、目が見えなくなった理由をイエス様に聞きました。この人が神様に逆らったからですか、それともこの人のお父さんやお母さんが神様に逆らったからですか、と。この人が目の見えない理由を昔の出来事の中に探したのです。そして、何か悪いことをしたから、罰を受けているのだと考えていました。私たちも自分がけがや病気をすると「バチが当たった」ということを考えませんか。自分でそう思うならまだしも、人に言われたら傷ついてしまいますね。弟子たちはそれをやってしまっています。
イエス様はこの人が目の見えない理由を「この人に神様の栄光があらわれるためである」と言われました。今、困っていることが起こっている理由が、昔に悪いことをしたからというのではなく、未来に良いことが起こるからと言われたのです。昔ばっかり振り返っても、やってしまったことは変えられません。あの時ああしておけばよかった、と考えてしまうことはこれから増えていくと思います。ですが昔に戻ってやり直すことはできません。ではどうすればいいのか。神様がちゃんと、良くなかった出来事に意味を与えてくださり、今までの悪かったことが全部ひっくり返る素敵な未来を与えてくださるのです。
「神様の栄光があらわれる」、ちょっと難しい言葉ですけれど、私たちが心から「神様、ありがとうございます」と賛美できることです。私たちの歩みは、その途中では色んなことが起こりますが、いつもこの神様の栄光に向かって進んでいるということを忘れないでいましょう。
(執筆:市原悠史牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)85番「かみさまにかんしゃ」、改訂版137番「かみさまにかんしゃ」。
<準備するもの>明るい色のクレヨン、黒や青のクレヨン、画用紙、つまようじ
1 明るい色のクレヨンで画用紙一面に塗る。
2 ①の上から黒や青のクレヨンで画用紙一面に重ね塗りをする。
3 つまようじで引っ搔いて、絵や模様を描く。
・下の層も上の層もすき間なく塗りつぶすのがポイント。指を使うとすき間なく塗れます。
自分自身にそのような体験がないか。今なら意味がわかること、辛かったけど今に繋がっていること、「もしかしたらこういうことだったのかも」と思えることなど。
今抱えている未解決の問題も、もしかしたらこれから先大切な意味を持つかもしれない。