イエス様はどのような方か・私たちにどのようにかかわっておられるかを考える
サマリアの女性の背景を知る。自分の身に置き換えて想像する。なぜ彼女は人目を避けるように水を汲みに来たのか。その女性に対してイエス様は「あなたの助けが必要だ」と語りかける。このやり取り前後の女性の変化に注目。私たちはどのようなとき、力が内側から溢れてくるか。
1.街の井戸は共用の大きなものだと考えられる。女性たちは暑さを避けて朝か夕方、水を汲みに来ていたらしい。
2.ユダヤ人とサマリア人は反目し合い、交わりを持たない。イエス様はユダヤ人。
イエス様はご自身が誰かに助けてもらわなければならない人として、この女の人の前に現れます。この女の人は正午ごろに井戸に水を汲みに来ていました。その日の生活に必要な水を汲むことは普通は朝に行われるそうです。他の人たちはそこで集まって水汲みのついでに話をして、仲良くしていたようです。わざわざ時間をずらして井戸に来た人は、その仲良しの輪の中に入らなかったか、入れない理由があったからです。イエス様とのやりとりにも表れていますが、この人は自分を隠しながら生きてきたのです。
この人が最初に見たイエス様の姿は、とても救い主には見えなかったでしょう。疲れて座り込み、お水を飲ませて下さいと助けを求めてきました。でも、弱々しく見えるイエス様とのお話する中でこの女の人はどんどん心が開かれていくのです。今まで誰に対してもずっと自分を隠していたのに、この人には隠す必要がないどころか、全部知られている。
驚いたでしょうけれど、嬉しかったと思います。なぜなら、全部知られているのに、そのことを責められなかったからです。隠し事をしてしまうのは、心の弱さがあるからです。イエス様は弱い心をちゃんと受け止めてくださいます。
イエス様が言っている「まことの礼拝」とは何でしょうか。私たちは礼拝を「神様の働き」として行っています。私たちが何かを捧げたり、それによって神様を喜ばせたりするというものではありません。神様が私たちに恵みを与えてくださる時間が礼拝なのです。
今日の箇所の会話から聞くなら、それは「私たちのすべてを知っておられる方が、私たちを必要としてくださる、用いてくださる」ということです。私たちも決して強くはありません。人に対して、神様に対して、隠したい自分を持っています。でもそれをご存知の上で、イエス様は私たちに語りかけてくださるのです。
私たちにとってのまことの礼拝、神様との関り、それは私たちの日常の中にあります。弱さを持つ一人一人の中に、私たちを必要としてくれる一人一人の中に、もちろん私たちの中にも、イエス様がおられるのです。
(執筆:市原悠史牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)63番「あさひうけて」、改訂版127番「あさひうけて」。
<準備するもの>紙、ペン
1 紙を半分に折る。
2 半分には最近あった嬉しいことや楽しいこと、もう半分には悲しかったことや困っていることを書く。
・誰かに発表するというよりも、自分の気持ちを包み隠さず表現してみましょう。
・嬉しいことも悲しいことも、隠したくなるようなことも、イエスさまはすべて受け止め、私たちを包んでくださることでしょう
人に必要とされたとき、どんな気持ちになるか。それに対して、自分が人を必要とするときはどんな気持ちか。自分は素直に人に助けを求めることができるか。