イエス様が救い主であり、預言者であり、その御ことばを聴くことにより神様の御心を知ることを伝える。
・モーセは最初の預言者であり、エリヤは預言者の中でも特別な位置づけをされている。その二人と語り合っているということは、イエス様も神様から預言者として神様の御心を伝える者である。
・神の雲に覆われて聴こえてくるのは「これに聞け」という言葉であり、主イエスの御ことばに聴き従う道を神が示す。そして、雲が消えたとき「起きなさい。恐れることはない」と弟子たちに触れて、恐れひれ伏す者を立ち上がらせてくださった。本来であれば神の御光に照らされたのであれば、罪人の自分が暴露されるだけである。死に服する者でしかない私たちを主イエスは触れて、立ち上がらせてくださる。復活の恵みは罪に死んでいた者を引き上げ、立ち上がらせてくださる神の御業である。
・雲が覆う描写は出エジプト24章12節(第一日課)のシナイ山に登って行ったモーセの出来事が根底にある。そこでも示されるのは、十戒、教えが与えられたように御ことばが出来事と大きく関係している。
イエス様は、洗礼を受けた後に荒れ野に向かわれました。すぐに人々のもとに行くのではなくて、荒れ野に向かわれたのは「悪魔から誘惑を受けるため」でした。悪魔は色々な誘惑をイエス様にしました。
一つひとつの誘惑をよーく読んでみますと、悪魔が言っていることは、どれも私たちが生きている間に望むことです。お腹が空いたら食べ物が欲しい。苦しいことを克服する力が欲しい、力が欲しい。悪魔の誘惑って私たちがふとした瞬間に願うものです。
私たちは神様を信じると心配も苦しいことも試練も無くなると思います。でもそうではありません。苦しみや、辛いことは起こります。でも、その苦しみや、辛い時にこそ神様の御ことばは私たちを力づけ、神様の御心、恵みをお知らせくださるのです。
神様を信じたのに何で苦しいの?辛いの?悲しいの?って思ってしまうことがあるかもしれません。お腹が空いているのにパンを願ってはいけないの?って思う人も居るかもしれません。
そんな中でイエス様も私たちと同じように誘惑を受けられました。この時、イエス様がお示しくださった生き方は、神様の御ことばをご自分のお心として生きていくこと、従っていくことです。
苦しい時こそ、辛い時こそ、悲しい時こそ私たちは世の中で言われていることではなくて、神様の御ことば、お心に耳を傾けて、聞いていくとき道は必ず開かれます。
神様を信じて生きるということは、苦しみや、悲しみから逃げ出すことではなくて、それは起こることだけれども、その中で落ち込んだり、神様の嘘つき!と怒るのではなく、イエス様が私たちと同じように誘惑を受けたときのお姿を思い出して、神様のお言葉を思い出していきたいと思います。
(執筆:竹田大地牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)51番「わたしはしゅのこどもです」、改訂版51番「わたしはしゅのこどもです」。
用意するもの:A4用紙(数枚)、リボン、はさみ、穴あきパンチ
1, A4用紙を半分に切る。
2, 1,の紙を半分に折って、数枚重ねる。
3, 輪になっている長辺の中央に穴あきパンチであける。
4, リボンを通して結んだらできあがり。
5, 表紙となるページに、「みことば手帳」と書く。
6,1ページめに今日のみことばは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」マタイ4:4を書いてみよう。
※毎週の聖句や心に残った聖句を書いていこう。
・神様のお言葉を信じられない時、私たちはどうしたらよいでしょう。
・なぜ神様のお言葉を聴かなければいけないのか考えてみましょう。