イエス様が救い主であり、預言者であり、その御ことばを聴くことにより神様の御心を知ることを伝える。
・モーセは最初の預言者であり、エリヤは預言者の中でも特別な位置づけをされている。その二人と語り合っているということは、イエス様も神様から預言者として神様の御心を伝える者である。
・神の雲に覆われて聴こえてくるのは「これに聞け」という言葉であり、主イエスの御ことばに聴き従う道を神が示す。そして、雲が消えたとき「起きなさい。恐れることはない」と弟子たちに触れて、恐れひれ伏す者を立ち上がらせてくださった。本来であれば神の御光に照らされたのであれば、罪人の自分が暴露されるだけである。死に服する者でしかない私たちを主イエスは触れて、立ち上がらせてくださる。復活の恵みは罪に死んでいた者を引き上げ、立ち上がらせてくださる神の御業である。
・雲が覆う描写は出エジプト24章12節(第一日課)のシナイ山に登って行ったモーセの出来事が根底にある。そこでも示されるのは、十戒、教えが与えられたように御ことばが出来事と大きく関係している。
昔、モーセという人は神様から御ことばを与えられながらイスラエルの人びとをエジプトから導き出しました。エリヤという人は、イスラエルの人たちが神様の御ことばに聴き従うように神様の御ことばを伝え続けました。そんな働きをする人を「預言者」と言います。
けれども、人間は神様からの言葉を聴いて伝える預言者の言うことをいつでも素直な心で聞いたかというとそうでもなかったようです。モーセの時は、荒れ野で40年間も歩き続けて神様と約束されていたのに文句を言ってしまいました。エリヤの時代も同じように神様の言葉に聴き従うことができない時が何度もありました。その結果、自分の国が滅ぼされてしまったのです。
私たち人間は、神様のお言葉を100%信じて生きていくことはなかなか難しいようです。神様のお言葉を信じられないことを聖書では「罪」と言います。人間は罪を犯してしまう。そうすると神様と正しい関係に生きることはできません。神様の救いに相応しくない状態になってしまいます。
でも、神様はそれでも人間のことを愛してくださっています。私たちが罪人のままで死んでしまったり、滅びてしまうことを神様ご自身望んでいません。だからこの世の初めからずっと私たちにお言葉を語り掛けてくださっています。そして、その最後に愛する御子イエス様を神様のお言葉を伝える預言者として、そしてその神様のお言葉を本当のことにするために救い主としてお遣わしになったのです。
イエス様のお言葉を聴いて、心に留めて、信じなさい。この方こそが真の預言者、真の救い主だよと神様は雲の中から弟子たちに語りかけます。神様の御光を放つイエス様こそが私たち一人ひとりを罪から救い出して、神様と私たち一人ひとりが永遠に結ばれるようにしてくださった方だよと教えてくださっています。神様のお言葉を信じ、神様のお言葉に導かれて生きていく喜びを心に留めて過ごしてみましょう。
(執筆:竹田大地牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)14番「うれしいあさよ」、改訂版3番「うれしいあさよ」。
用意するもの:白い布切れ(なければ白画用紙や模造紙でもOK!)
1, イエスさまは、この布(紙)のように真っ白いけがれのないお方です。
2, 白い布に、「イエス様ごめんなさい。」と思うことを書いていきます。(1人1枚でも大きめの布に全員で書いても良い。)
3, 私たちの罪によって、真っ白い布が汚れていきます。
4, イエスさまが、十字架にかかる日まで、毎週書いてみましょう。
「みんなの罪のために十字架にかかったイエスさま。汚れてしまった布はイエスさまです。汚したのは、わたしたちです。」
・神様のお言葉を信じられない時、私たちはどうしたらよいでしょう。
・なぜ神様のお言葉を聴かなければいけないのか考えてみましょう。