どのような時も「わたし/わたしたち」は神の祝福の内にある事を知る。
・5章3節から10節にかけては「8つの幸い」とも言われ、その最初と結びに「天の国はその人たちのものである。」(5:3,5:10)とあるのは印象的。イエスは宣教活動の開始にあたって「天の国は近づいた」と宣言された。今日の物語はこの宣言と豊かに響き合っている。
・「あなたがた・・・」とイエスは語りかけてくださる。この近さ、親しさはイエスを慕う様々な課題や重荷を負った人々にとって深い慰めと、励ましとなったであろう。
・マタイによる福音書5章から7章は「山上の説教」と呼ばれイエスの言葉が集められている。これらは「幸いである」という言葉で始まっている。ルカによる福音書では平地の説教(6章20以下参照)として記されている。読み比べるとより深く味わえるだろう。
・「幸い」と訳されている言葉(マカリオイ)は、私たちが考える物質的な喜びや楽しみによる「幸い」ではなく「神に祝福された者たち」というニュアンスで受け取るとよい。
弟子を招いて宣教活動をはじめられたイエスさまのうわさは国中に広まりました。すると多くの人たちがイエスさまから話を聞きたい、病気を癒して欲しい・・・など、様々な思いをもって押し寄せてくるようになりました。この日も山に登られたイエスさまの後に多くの人たちが従っています。イエスさまはそのような人たちに向かって、「○○の人々は、幸いである」というお話をしてくださいました。けれども聖書の朗読を聞きながら、「どうしてこれが幸いなの~」と疑問を持った人もいるかもしれませんね。
ここには「心が貧しい」とか「悲しむ人々」など普段私たちが幸せだとは思えない状況の人たちが登場しています。「心が貧しい」というのはちょっと難しい表現ですが、心にゆとりが全くない状態とか偏った考え方に凝り固まって他人の言葉を聞くことができない、自分のことしか考えられない状況を想像してみてください。また心配事や不安があって、ほかのことがちっとも考えられない・・・という状況も近いかもしれません。不安だと体は緊張しますし、心も穏やかではいられません。これのどこが幸いなんだ?とますますよくわからなくなりそうですね。
では皆さんが「幸いだ」と思う時はどういう状態でしょうか?願い事がかなった、病気が治った、けんかしていたお友だちと仲直りできた・・いろいろあると思います。でも、そういう時だけが幸いだったら、願いがかなわない人、病気が治らない人、仲直りできない人たちはダメなのでしょうか?あぁ、ダメだなぁ、苦しいなぁ、辛いなぁと思っているときに、「ほんとにお前はダメだな。」と言われたら、どのような気持ちになるでしょう?
イエスさまは、苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たち、辛い目に遭っている人たちに「ダメだ」とは言わず「あなたがたは幸い」と言われました。なぜなら、人の苦しみ、悲しみ、辛さに寄り添って、慰め、癒し、憐みを注いで共に生きるためにイエスさまは来られたからです。「天の国はその人たちのものである」という言葉は、どのような時にも私は神さまの祝福の内にあると信じる者たちに向けられた言葉です。
(執筆:岡田薫牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)120番「どんなときでも」、改訂版129番「どんなときでも」。
•先生がリーダーで、子ども達に指令を出します。
子ども達はその指令に従いますが、指令に従って良いのはリーダーが指令の前に「幸いな人」と付けた時だけ。
リーダーの言葉をしっかり聞いて行動しよう!
例「幸いな人両手を挙げてください」等
慣れてきたら少し大きな子がリーダーを替わっても良い
「幸い」って何だろう?と考えながら、神様に喜ばれる子どもで居られるようお祈りしましょう。
・「幸いである」ということはどういうことだろう?自分が感じる「幸い」について語ってみよう。
・苦しみの中にある人にとって「あなたがたは幸いである」という言葉はどのように聞こえるでしょうか?嫌味に思われたり嫌悪感を抱かれるかもしれません。イエスさまの真意をどのように伝えることができるでしょうか?