真理とはイエス様そのものを指す。自由とは縛り付けられたものから解き放たれること。
縛られている罪とは何かを知る時、はじめて自由への道が開かれる。
罪:殺人や窃盗などわたしたちが思い起こすものではなく、むしろイエス様は「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ7:21-23)と内からでるものを罪と言われる。
イエス様が「真理はあなたがたを自由にする」と言われた時、ユダヤ人はすぐに「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません」と答える。当時、ユダヤはローマ帝国の属国になっていて、決して完全な自由を持っていたわけではなかったが、ローマ政府はユダヤ人が誇り高い民族であることを知っていたので、名目上の自由と独立は与えていた。ここでイエス様が言われたのは、政治的あるいは社会的な意味での奴隷ではなく、霊的な意味での奴隷状態のこと。
今日、イエス様は「あなたたちは自由である」、「真理はあなたたちを自由にする」と群衆に言いました。同じことを言われたら私たちはおそらく「わたしは自由です」と言うことでしょう。戦争に負けて、捕虜であったり、奴隷ということも今はありません。
「真理」は辞書にこんなふうに書かれています。「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道」。時代などが変わってもかわらないものが真理です。キリスト教で言うなら、真理とはイエス様と言い換えてもいいでしょう。「イエス様はあなたたちを自由にする」。とらわれているもの、縛られているものから解放すると言われます。
確かに今、奴隷ではないでしょう。でも、色々なものにとらわれていますし、聖書は「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」具体的なとらわれているものを上げます。少なからず、私たちは持っていることと思います。このようなものにとらわれている自分に気づくと言うことがまず大事です。病気の人が「自分は健康だ」と言っている間は、決して良くなりません。自分の病気を認めることから、治療がはじまるように、自分が罪に縛られているということを認めることから救いと解放が始まります。
イエス様はご自分の生き方、そして聖書のことばをもって真理となり、私たちを自由にしてくれます。自由とは何でもしていい、何でもできるわけではありません。自由には責任が伴います。また自由だから、自分が進む道を選べます。自分の姿、弱さを抱える姿を知り、認め、そのわたしを愛してくださる神さまに感謝して進んでいきましょう。
(執筆:加納寛之牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)68番「ザアカイ」、改訂版132番「きみがすきだって」。
「ルターさんがいいました!」ゲーム
①1人が号令係になります。号令係さん以外の人は号令係さんと向かい合って並びます。(並び方は自由です)
② 号令係さんは「ルターさんがいいました、●●(して)ください」と言います。
●●は、「ジャンプ」や「座って」や「その場で回って」など号令係さんが考えたもので結構です。みんなはその指示に従って動きます。
③ただし号令係さんは自分の好きな時に「●●(して)ください」と言います。この場合、みんなは指示に従いません。もし指示に従った人がいたら「残念、アウト〜!」です。
④また、号令係さんが「ルターさんは…りんごの木を植える」と言ったら、フルーツバスケットのようにシャッフルしてみんなのいる場所を変えます。
⑤大きいおともだちは「ルターさん」と「りんごの木を植える」にどんな繋がりがあるか教会の牧師先生に聞いてみたり、調べてみましょう!どんな繋がりがあるかな?
「自由」と言われたらどんなイメージでしょう?(今の自分は自由?)また「自由」であったらどんなことをする(したい)でしょうか。それに伴う責任を考えよう。