わたしたちは他人との比較で自分を捉えようとする。しかし、神さまの前で大切なことは神さまの前での自分の姿、立ち方である。
祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すこと。自分を大きく見せるのではなく、反対に卑下するのでもない。自分自身のありのままを認めることはとても大変なことであるが、そこから神さまの愛を感じ、受け入れる生き方が始まっていく。
へりくだる:直訳では「自分を低くする」。自分のありのままの姿を見つめるということ
ファリサイ:「分離する」という意味の言葉から来たと言われている。「律法を知らない汚れた民衆から分離した者」と自認していたのであろう。
徴税人:ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受けていた人。
義とされる:パウロの手紙の中によく見られる言葉。神に受け入れられるということ。
ある鉄道会社が「全席が優先座席」という考え方で電車内から優先座席を撤廃していましたが、約十年で優先席を復活させたのです。人は本質として善であって、思いやりをもってどの席に座っていても譲り合ってくれると信じて始めたそうですが、現実には席を譲らない雰囲気が広まり、高齢者を中心に復活を求める意見が毎年多く寄せられたのだそうです。法律で照らせば席を譲らなくても問題はありません。私たちの生活の中で大事なことは「正しい」ことだけでしょうか。規則で決まっているから席を譲るではなく、相手のことを思いやる心を私たちは持ちたいし、なかなか持てないことに気づかされます。
今日の福音は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話されたたとえ話です。わたしには全く関係ないとも言えないように思います。私たちは自分の姿を他の人と比べて、はかろうとします。例えば、学校の成績などです。他に自分は正しいことをしていて、あの人はしていないなどと比べたりもあります。でも、私たちにとって大切なことは他の人と比べた自分の姿を見るのではなく、神さまの前にある自分の姿、神さまの目から見た自分の姿に気づくことです。へりくだるという言葉は直訳では「自分を低くする」という意味です。ただの謙遜ではなく、自分のありのままの姿を見つめるということです。神さまの前で、この世界の中で、正しく生きているか、神さまの御心に適う生き方が出来ているか。色々な弱さに気づくでしょう。窃盗とか殺人などの大きな罪ではなく、弱い自分、例えば全席が優先席という思いの中で、声を掛けられなかったり、見て見ぬふりをしたりはないでしょうか。そのわたしを神さまはゆるしてくださいます。小さいあなたをわたしは知っている、見ている。それが神さまです。その上で、神さまに立たせていただき、共に歩もうと言っていただき、頭を上げて歩んでいけるのです。
(執筆:加納寛之牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)57番「しゅわれをあいす」、改訂版27番「キリエ・エレイソン」。
今日は【制作バージョン】と【ゲームバージョン】があります。余裕のある場合2つやっていただいても構いません。年齢や状況に合わせて行ってください。
【制作バージョン】
〈用意するもの〉
紙 鉛筆やクレヨンなど書くもの 折り紙(色付きの紙) シールやリボン、マスキングテープなど好きなもの ハサミ 糊
①紙に自分と、家族やお友達 自分の大切な人を書く
②色を塗ったり、折り紙を切り貼りしたりテープやシールなどで素敵にデコレーションしましょう
③お部屋に飾ったり、家族やお友達にプレゼントしても◎
私たちは一人一人違う人間です。いいところも悪いところも神様はありのままの私や家族、お友達を大好きでいてくれます。
【ゲームバージョン】
「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ゲーム
・みんなで輪になり、リーダーは中に入る。
リーダーが、「上」と言ったらしゃがみ、
「下」と言ったら、立ち上がる。
「右」→左を向く。左手を上げる。
「左」→右を向く。右手を上げる。
※顔を動かすバージョン、手を動かすバージョン、身体全部で動くバージョンと変えていっても良いですね。
「罪人であるわたし」(徴税人の言葉)という言葉をどのように感じるでしょうか。
世間で認識される「罪人」とキリスト者が受け止める「罪人」の間にどんな違いがあるかを考えてみましょう。