「ゆるし」はわたし自身の力でできるものではなく、ゆるしの力は神さまから来る、その神さまの力を信頼の心をもって受け取ることが大切。
弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にする。しかし、イエス様は「からし種」の話をされる。「信仰とは量や大きさの問題ではない」ということを語られ、神さまへの小さな信頼があれば、すべてが可能であることを語る。
一日に七回:七は単純な回数の問題ではなく、聖書では完全数として用いられる。人間の
思いを越えた何度でも、を表す。
からし種:世界で一番小さな種の比喩。
桑の木:約6メートルになる木。からし種との対比で大きい木。
信仰をはかる単位ってあるでしょうか。イエス様の弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言いました。弟子たちは信仰の「量」を問題にしています。お金がたくさんあれば、色々なものと交換できるように、信仰がたくさんあれば、しっかり生きていけると考えたのでしょう。立派なイエス様の弟子となれる、困難があっても平気だと思ったのかもしれません。そんな弟子たちにイエス様は「からし種」の話をしています。からし種とは本当に小さなもののたとえです。小さなものがあれば、すべてが解決すると言うのです。それは「信仰とは量や大きさの問題ではなく、信じて神さまにゆだねたときに、神さまが働いてくださる」ということです。大きなものを動かすのに大きな力が必要であるのではなく、一つの力でいいのです。だからこそすべてが可能になるのでしょう。
イエス様が言われる「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」を実現するにはまさに「からし種」の信仰が必要です。大きな信仰でもたくさんの信仰でもありません。人をゆるすことなどわたしたちには到底出来ません。人を赦すこと。赦し続けること。赦しの心を失わずに持ち続けること。もし、それができるのだとしたら、それは自分が神さまから多くの弱さを赦されて、愛されて、生かされて、今こうして生きているということを知る者が持つことのできる心です。「七回ゆるしてやりなさい」と言われますが、八回目はゆるさなくていいではなく、一日に七回、それ以上に許してもらっているのはわたし自身であることに気づかされるための言葉です。
小さくとも神さまを信じて委ね、祈る信仰があれば、そこには神さまの大きな力が働きます。わたしたちにできることは、その神さまの大きな力を受け止めることです。自分がゆるされている、愛されている、そのことに感謝し、ゆるしと愛の生き方をしましょう。
(執筆:加納寛之牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)35番「しゅわれをあいす」、改訂版124番「あいのしゅイェスは」。
お友だちに嫌なことしちゃったなという気持ちでいる時、許してもらえたらどんなに嬉しいかを体験してみよう!
〈用意するもの〉
紙、えんぴつ、消しゴム、箱
①お友達や家族や周りの人に対して、意地悪をしたり、悲しい思いをさせてしまったことを思い出して紙に書いてみよう。1人1枚でも、2枚でも書いて良い。
②書いた紙を箱の中に入れる。さっきまで軽かったのに、みんなのした意地悪なことがぎっしり詰まっているから、今は持てないくらい重くなっています。
③どうしたらこの箱、軽くなる?と考えてみる。許してもらう⇒どうしたら許してもらえるかな?⇒いけなかったと思う。
④反対に友達に嫌なことをされたら怒りたくなるよね。でも友達に「ごめんね、もうしないよ」って言われたら許せるよね。
⑤みんなの嫌な気持ちで重くなってしまったこの箱。みんなが悪かったなあと思えば、許してもらえるはずです。そうすると気持ちが明るくなって、心が軽くなるよね。そうするとこの箱も軽くなります。
⑥全てをご存知の神様に今日の学びを報告しつつ、友達同士、家族同士、嫌なことを見たり聞いたりした時には、それはいけないよと言える勇気をくださいとお祈りしましょう。
「(人が人を)ゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。実体験も含め、実際には「ゆるす」ことは難しいことです。しかし、「ゆるせない」と嘆くよりも、「ゆるしてもらった」ことや「ゆるせた」という体験を分かち合ことが「ゆるす」ということを改めて考えられるのではないでしょうか。