主の受難について聞くこと(読むこと)の大切さを知る。
・主の受難の物語は、キリスト教信仰において特に重要な聖書箇所です。
・受難物語について「理解すること」「説明すること」は大人であっても難しいことです。しかしながらこの物語を聞くこと(読むこと)それ自体に信仰上の意味があります。
・マルチン・ルターは、受難の物語を通読したうえで黙想することを、彼の教会員たちに勧めました。ルターは「一年に一度、主の受難に関する聖書の記事を通読するのはよいことです。」と述べたうえで、「キリストの苦しみについて一日でも、一時間でも、たとえ十五分でも正しく黙想するならば、それはたしかに一年を断食に費やすより、何日も詩編を誦しつづけるよりも、そうです、百回のミサよりもまさるものでしょう。」と記しています。一年に一度でも主のご受難について読み、静かに思いを向けることが、私たちの信仰を新たにし、洗礼を受けたときのような新鮮さを与えてくれるとルターは考えていたのです。
・ルターはさらに「どんなにふかい理解をもってしても、またどんなに雄弁な舌にも、また筆にも、キリストの受難の意味を表現することはできません。人はただ、内なる深い感情から、はじめてそれをいささか理解することができるのです。」と記しています。十字架の意味というのは、外から教えられるものというよりは内から感じるもの、心で理解するものであるということでしょう。ルターにしても私にしても説教することが仕事なわけですから職務放棄のように聞こえてしまったら申し訳ないのですが、でもこれは真実だと思います。神様がみなさんの心に宿してくださった信仰は、人間のスピーチよりもはるかに力強いからです。