苦難を前に、父なる神さまのみ心に従って前進するイエスさまの力強い姿を心に刻みます。
・ファリサイ派の人々は、ヘロデ(・アンティパス)やヘロデ派の人々とは、基本的に対立関係にあります。しかし、利害が一致すると両者は協力し合うこともありました。ここでは、ヘロデの暗殺を告げ、一見、イエスさまの味方のようでもありますが、真意は、エルサレムの都からイエスさまを追い出そうと画策しているのです。ファリサイ派の人々の偽善的な態度でした。
・きつね、狡猾な動物。
・三日目にすべてを終える。十字架の死と復活による救いのみ業の完成。自分の道(ゴルゴダの道)。エルサレムでの死を告げています。
・雛(申命記32:11参照)。申命記32章はモーセの歌。歌の中で、「彼らは思慮に欠けた国民。彼らには洞察する力がない」「わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」(申命記32:28.39)とあります。
・「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」(詩編118:25)。詩編118は、他に 「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。」(22節)とあります。
・石の神殿は壊され(70年エルサレム陥落)、まことの神殿が再興することが暗示されています。ファリサイ派の人々には、希望は裁きの陰に隠されて告げられています。
・主はモーセに言われた。「民のところへ行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備しなさい」(出19:10.11)。
モーセは三日目にシナイ山で、神さまから十戒を授かった。三日目は、顕現、神ご自身のあらわれとして、神がみ業を行う日です。
・今日という日は、与えられた命、与えられた務めに生きる日であると同時に、三日目を迎えるために備える日でもあります。
「イエスさま、ヘロデがあなたのお命を狙っています。すぐに逃げてください」。ファリサイ派の人々が、イエスさまに忠告するためにやって来ました。彼らはイエスさまの味方でしょうか。いいえ、違います。彼らは、イエスさまに上手く言って、エルサレムの都からイエスさまを追い出してしまう魂胆でした。
しかし、イエスさまは、霊の力で、彼らの心の内をすべて知っておられたので、ファリサイ派の人々の罠に、嘘の言葉には引っ掛かりません。イエスさまは答えて、「行って、あの狐に、今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日にすべてを終える」と言いました。あの狐とは、ヘロデのことを指していますが、ヘロデ一人に言っているのではなく、やんわりと、周りにいたファリサイ派の人々みんなに聞かせています。イエスさまの心は、神さまと結ばれ、まっすぐです。
これからイエスさまが進もうとされる道は、険しくて困難な道でした。人々からののしられ、鞭を打たれ、体中傷だらけに、そして、最後は、十字架の上で、この上ない苦しみを味わって、血を流して、死んでしまうという、ゴルゴダの道だったのです。
ルターの言葉に、「明日、世界の終わりが来ようとも、今日、わたしはリンゴの木を植える」という言葉ありますが、何となく似ているようにも思います。イエスさまは、今日も明日も、神さまから与えられた命に一生懸命生きて、自分の務めを果たしていく、と言っているのです。
そして、三日目は、神さまの働く日です。イエスさまは、十字架に架かって死んでしまいますが、三日目に、父なる神さまのみ力によって、よみがえりましたね。そのように、三日目は、父なる神さまが、救いの業をもって、働かれる日なのです。ルターの言葉の「明日」というのも、この神さまの働かれる三日目のことで、神さまの救いのみ業に委ねる、という意味です。そうすると、世界の終わりというのは、滅びではなく、救いの時であり、神さまによる世界の創造のすべてのみ業の完成を指して、ルターは世界の終わりと言っています。
ですから、私たちが、リンゴの木を植える、自分に与えられた務め、普段の生活を、心を込めて行うことが大切です。大人だったら、仕事をするけれど、子どもの場合は、保育園や幼稚園、学校に通って、みんなと遊んだり、勉強やスポーツをしたり、お手伝いをして働くこともあります。毎日の生活を喜び生き、神さまがお与えくださった命を大切に、隣人と仲良く平和に過ごすこと、それがリンゴの木を植えることです。イエスさまは、み言葉を伝えて、悪霊を追い出し、病気を癒されました。それらはすべて教会の働きです。神の言葉を宣べ伝える宣教と、ディアコニア、人々に仕えて働く、奉仕の業ですね。
イエスさまは、三日目を信じて、力強く歩まれました。私たちも、イエスさまを信じて、今日も、明日も、次の日も、イエスさまと共に、望みに生きましょう。私たちも、一人一人に与えられた自分の道を、力強く歩みます。
(執筆:小勝奈保子牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)36番「しゅイエスのみちを」、改訂版120番「しゅイエスのみちを」。
イエスさまは人間みんなのために十字架にかかられました。そして復活され、天に昇られました。プロテスタント教会では、十字架にはイエスさまはなく、十字架は復活のしるしなのです。死にうち勝たれるイエスさまから力をいただきましょう。
ファリサイ派の人々から「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(31)と言われても、イエスさまは逃げようとしませんでした。
なぜ、逃げなかったのでしょうか? みんなで話し合ってみよう。