「この人はヨセフの子ではないか」(22節)の言葉のように、あまりにも知りすぎると、なかなか素直に受け入れ難いものです。それは自分の情報と価値観という自分の物差しが優先して、真理をも拒否することになるのです。ユダヤ人のそれぞれの物差しで計られたイエスの姿が見えてきます。
・マルコ6章2-3節では、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。……この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。……。』このように、人々はイエスにつまずいた」と。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとません。ルカ福音書の「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
・22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、「所詮、ヨセフの子にすぎないのに、どうして自分たちの前で公然と語るのか」ということでしょう。
エリヤとエリシャは(列王記上17章、列王記下5章を参照)は、共に紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者、共に異邦人に神の救いがもたらされたというお話です。 預言者の活動は、神の大きな救いの意思に基づくものでしたし、イエスもまた、そのような神の意思に基づいて預言者として語り、救いをもたらす活動しているのです。
みなさんは、新しい千円札と、くしゃくしゃになった、ボロボロの千円札があれば、どちらを選びますか?今日はこのお札の話をみんなで考えてみましょう。
アメリカのニューヨークで教会のお仕事をしていたグレアム・R・ホッジズという名前の牧師先生は、子どもたちの前に立って、二枚の一ドル紙幣を手にしています。一方は新券で銀行から受け取ったばかりです。そして先生が一番最初の所有者です。でももう一方は、どうにもこうにも汚くて、油がしみついていて、少し破れているし、しわくちゃで、角もとれています。人の手から手へとわたっていくうちに、そのようになったのでしょう。このお札は食べ物や服やガソリンを買うのに使われたり、もしかすると何かいやなことに使われたりしたかも知れません。きっとこの古いお札が銀行に戻ってくると、仕分けされ、焼却処分されることになるでしょう。
この二枚のお札は、こんなにも違うのですが、ただ一つだけ共通点があります。それは、二枚とも全く同じ価値を持っているということです。つまり、十セント銀貨にすれば十個分の価値であり、それ以上でも以下でもありません。新品のお札も、ボロボロで今にも破けそうなお札も、どちらのお札でも店では同じ品物が買えるのです。(「イエスさまも教会に行ったの」より)
神さまが私たちをごらんになるときの、その見方はこれと同じといって良いでしょう。私たちの顔や姿、年齢、健康状態、富、人柄その他のことがどんなふうであろうとも、神さまは私たち人間すべてをまったく同じ大切な価値のものと見ておられます。そして、誰も分け隔てなく愛してくださっています。イエスさまがおいでになったのは、そのことを私たちに分からせてくださるためです。
それなのに、私たちは見た目や私たちに対する振る舞いで人を判断しがちです。イエスさまが、自分の故郷ナザレで受け入れられなかったのは、救い主は、自分たちが使っているお札のような、自分たちの身近にいるヨセフの子イエスではなく、救い主はまだ見たこともない新札の一ドル紙幣に違いないと思っていたからでしょう。そしていつしか、邪魔者のように、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」の聖書のことばのようになるのです。
時々、私たちは自分が理解している以上のことや考えは受け入れられないようです。神さまのことはなおさらです。故郷の人の姿は、自分の考えを超えられない人の姿でしょう。しかし神さまは、私たちがどんな状態であろうとも、み子をこの世に送って下さるほどに愛し、救いの手を差しのべてくださるのです。どんなにボロボロでも、新札でも、神さまは、分け隔てすることなく、いつも大切に、大切にあつかい、かかわってくださいます。神さまに感謝して、となりのお友だちや、まわりの人々を大切にして過ごしましょう。
(執筆:渡邉 純幸牧師)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)103番「どんなにちいさい」、改訂版58番「どんなにちいさいことりでも」。
用意するもの:人数分の画用紙、余ったみことばカード(ない場合は、予めいくつかみことばをチョイスしておこう。)
① 1人1枚ずつ、画用紙を筒状にします。
② 最初の人は、トランプのように1枚ひき、書いてあるみことばを覚える。
③ 順にみことばを覚えて次の人に伝えていく。それぞれ筒状にした画用紙を持ち、伝える人は画用紙を次の人の耳に当てて伝えてみましょう。
④ 最後の人は、みんなに伝わったみことばをそのまま発表する。
間違えずに伝えられたかな?
・お話のように、一枚は千円の新札、もう一枚は千円のよれよれの古いお札が目の前にあるとします。私たちは、自分が手にしたいものは2枚のうちどちらでしょうか? どちらを選んでも、選んだ理由というか、根拠が何となくあるでしょう。それを聞いてみましょう
・ナザレの人たちは、イエスを救い主としてではなく、「この人はヨセフの子ではないか」としてみなしています。ここには、自分の確かさが一番、それ以外は間違いとでも言っているようです。自分の物差しの確かさと、相手の物差しの確さを考えながら、もう一度、今日の聖書の箇所を読んでみましょう。