・私たちは終わりの時を、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と待ち望みます。その時は問題ではありません。大いなる日が来るときに、私たちはあがなわれます。ですから、ただひたすら、主と共におらせていただくことを願い求めるのです。
・終わりの時には、私たちはさばきの座に立たされると書かれています。主は羊と山羊を分けられます。麦と毒麦を分けられます。しかしながら、ただひたすら救い主イエスさまのお約束に信頼してわが身を委ね、恐れではなく、ただ純粋に永遠の命を、永遠の慰めと喜びが与えられるのを待ち望みながら、《アーメン、主イエスよ、来てください》(黙22:20)と祈らせていただきましょう。
・太陽はおよそ50億年後に燃え尽き赤色巨星となって、地球の軌道をも飲み込み寿命を迎えると言われています。またそれ以前に、私たちの天の川銀河は40億年後に、アンドロメダ銀河と銀河衝突を起こすとも予想されています。「終わりの時」はいずれ必ず来ます。しかしながら、《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである》(マタイ24:36)と、また《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いるもあなたがたと共にいる》(マタイ28:18,20)とイエスさまは言われます。イエスさまのお約束に堅く信頼してまいりましょう。
イエスさまが二千年前にこの世に来られたとき、ひっそりと貧しいお姿で来られ、何の罪もないお方が私たちの身代わりとして十字架におつきくださり、救いを成し遂げてくださいました。救い主が来られたことを知る人は、ほとんどいませんでした。しかし「終わりの時」には、大いなる力と栄光を帯びてイエスさまが再び来られるのを、《すべての人の目が彼を仰ぎ見る》と言われます(黙1:7)。バチカンのシスティナ礼拝堂の壁面には、その様子を想像したミケランジェロの有名な絵、「最後の審判」が描かれています。
「終わりの時」の前には、にせもののキリストが現れて人々をだましたり、《方々に地震があり、飢饉が起こ》りますが、それはまだまだ《産みの苦しみの始まり》だと、イエスさまは弟子たちに諭されます。弟子たちが《そのことはいつ起こるのですか》とイエスさまに質問しますが、この問いはとてもナンセンスですね。イエスさまにもその時は分かりません。父なる神さまだけがご存知のことがらです。私たちは、いつ神さまの御前に出ることがあってもよいように、今という時を大切に過ごしていきましょう。「終わりの時」、つまりイエスさまが再び来てくださる時は、私たちにとって救いの完成の時です。したがって、《マラナ・タ(主よ、来てください)》とお祈りしながら、イエスさまが来てくださるのをひたすら待ち望みます(1コリ16:22、黙22:20)。イエスさまが私たちを招き、私たちの内に確かな信頼をごらんいただく時、それはどんな言葉でも言い表せないほどの喜びではないでしょうか。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)95番「イエスさまはわたしの」、改訂版31番「しゅよ、おいでください」。
<用意するもの>将棋の駒、将棋盤(あれば)
・山になった将棋を人差し指で音が鳴らないように取る遊びです。取るときにカタッと音が鳴ったら、次の人と交代します。
・たくさん取れた人の勝ちです。
<用意するもの>ジェンガ
・順番に片手だけを使い、ピースを取っていきます。取るときに崩れたら負けです。
※形あるものは、壊れたり崩れたりします。でもイエス様という土台があれば崩れることはありません。イエス様のお言葉を土台とし、生きていきたいですね。
・大きな苦難や試練のときに、私たちは何を頼りにしたらよいのでしょうか?
・イエスさまが再び来られる日は、なぜそのときが来るまで秘密なのでしょうか?