テーブルの下にいる小犬も、落ちて来るパン屑はいただきます、という女性の言葉から、神さまの愛は、あふれるほどだと純粋に信じる信仰を学ぶ。
「犬はあと」と言われた主のみ言葉、あまりストレートに表現すると、聞いている子どもたちはショックを受けるかもしれない。・・・もちろんこの個所は、年齢に関係なく、「ええっ?」と首をかしげたくなる話だと思うが。・・・かと言って、話をごまかしすぎても、いけないだろう。シリア・フェニキアの女性が言った「小犬もパン屑をいただく」という言葉を明確にするためには、イエスさまのお言葉も、ある程度、そのまま伝える必要がある。
ふたつの側面を考えた。ひとつは、神の愛は、あふれるほどということ、もうひとつは、(まるで小犬のように)「ひざまずいている」という女性の姿が、彼女の純粋な信仰とつながっていたということ。
この個所の出だしを読むと、イエスは、誰にも知られたくないと思って、遠く離れたティルス地方に行っておられる(地図確認)。次の8章に出て来るいくつかの話から類推すると、群衆から離れて、「弟子への教育」に専念したいと思っておられたかもしれない。その中にあって、起こった出来事。結果として、これもまた見ていた弟子たちにとって、忘れがたい出来事となったのでは。
ユダヤの人々は、異教の人々を侮蔑的に「犬」と呼んでいたようである。ただ、ここにある「小犬」という翻訳を見て分かるように、イエスは、少し柔らかい言い方をなさった。「わんちゃん」といった感じと取ってよかろう。
「うわぁ、こぼれちゃった!」
コップに水を入れようと思ったら、入れすぎて、コップから水がこぼれてしまった。こんなこと、ありませんか。先生は、そういうこと、よくあります。
今日のお話は、神さまの愛、神さまの恵みが、いっぱいで、いっぱいで、こぼれてしまう、というお話です。
あるとき、イエスさまのもとに、ひとりの外国人の女の人が来ました。「私の娘が病気です。どうか助けてください」その人は、イエスさまのあしもとにひざまずいて(そのような格好をしてもよい)、お願いしました。
さあ、イエスさまはどうされたでしょう。イエスさまは、きっと助けてくださる。そう思うかもしれません。
でも、この日、イエスさまは、「まず子供にご飯をあげないといけません。子供のご飯をこいぬにあげるわけにはいきません」とおっしゃいました。
それは、イエスさまが助けるのには順番があること、イエスさまは、今はイスラエルの人のもとで、そのお働きをしているから、外国人のあなたのために、今は、できないのだという意味でした。
この話を聴くと、なんか、がっかりしてしまいそうです。イエスさまがすぐに助けてくださらなかったこと、それはちょっと驚きですね。
でも、このあと、もっと驚くことが起こります。この女の人は、答えました。「イエスさま、あなたの恵みは、いっぱいで、いっぱいで子供にあげたご飯は、こぼれちゃいますよね。だから、テーブルの下にいる小犬も、こぼれて来たご飯を食べることができます」
この言葉をお聴きになると、イエスさまは、「あなたは本当に神様を信じているのですね。おうちへ帰ってご覧なさい。おじょうさんはもう治っていますよ。」
その女の人が家に帰ってみると、ほんとうに娘さんは、すっかり元気になっていました。
ああ、考えてみると、この女の人は、ひざまずいてイエスさまにお願いしていました。イエスさまを見上げ、天を見上げていました。天の恵み、イエスさまの恵みは、あふれてこぼれるくらいいっぱいあるって、心から信じていたのですね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)90番「うたいましょう」、改訂版126番「うたいましょう」。
ホットケーキミックスでざっくりとした簡単なパンを作ります。
時間が足りない場合は先に作り、準備しておいても良いでしょう。
このパンは神さまの恵みです。食べることでわたしたちの心と体を満たしてくれます。ポロポロしやすいパンですが、「神さまの恵み」をこぼさないよう大切にいただきましょう。
<材料>
ホットケーキミックス200g、バター(室温でやわらかくする)25g、プレーンヨーグルト150g、パウンドケーキの型(100円ショップで、紙のものもあります)。
<作り方>
ホットケーキミックスとバターをよくすり混ぜる。オーブンを170度で予熱スタート。ヨーグルトを加え、粉っぽくなくなるまで、さっくりとまぜる。
油をぬった(紙の場合は必要なし)型に入れ、表面をならし、170度に予熱したオーブンで30~35分位焼く。
竹串をさして何もついて来なければ大丈夫。火の通りが足りないようであれば、アルミホイルなどをかぶせて焦げないようにし、焼き時間は様子を見ながら増やします。
このお話では、結果的に、彼女の願いが聞き届けられた。でも、わたしたちの毎日の祈りはどうだろう?この話のはじめの場面のように、「願いが聞き届けられない」「祈りがかなわない」ということがけっこうあるのでは。
それでも、祈り続けたい。祈ることは神さまとの会話、神さまとのつながりだから。