イエス様は、人の汚れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだと言われた。つまり汚れはバイキンのようなものではない、ということ。
脈絡をつかむこと、繰り返し読むこと(他の訳も含めて)。
ファリサイ派や律法学者たちは、バイキンから身を守るように汚れから身を守ろうとして、食事の前に手を洗っていた。私たちが、衛生的な観点から、手を洗い、バイキンを除去してから食事をするように、彼らは「汚れ」を洗い落とすことによって清い者となろうとしていた。
それに対してイエス様は、「汚れ」は洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、と言われた。
ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちは「清い」と思っています。「清い者」と「汚れた者」という区別を設けて、自分たちは清い者として、汚れた者を批判する、そういう構図がここにはあります。私たちの心の中にも、人を「清い者」と「汚れた者」、言い換えれば「いい者」と「悪者」に分けて、「清い者、いい者」の側に身をおいて「汚れた者、悪者」を批判していく思いがあります。
そこでイエス様は15節で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われました。「人の中から出て来るものこそ人を汚す」と言うのは、体から出ていく排泄物のことではなく、「人間の心から出て来る悪い思い」です。具体的には、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などです。これらの悪い思いと行いは、外から入って来るのではなくて、私たちの心の中から生まれて来るのです。私たちは、悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心しますが、決心する心そのものが汚れの源泉だとイエス様は言うのです。
イエス様は、その伝道の最初の時以来、1章15節にあるように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様の支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それがイエス様の根本姿勢です。そしてこの神様の支配に身をゆだねることこそ、私たちの心を支配している汚れ、罪からの解放が、つまり救いがあります。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、イエス・キリスト、外から来て、与えられるのです。汚れは私たちの内側から生じるということは、私たちは自分の力でそれを解決することができないということです。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めてくださいました。それが救いです。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分を洗い清めようとするのをやめて、キリストの十字架による罪の赦しという福音を信じ受け入れて、神様の愛と恵みの支配に身をゆだねなさい、と言うことです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)4番「けさもわたしの」、改訂版115番「このはなのように」。
①2人ペアになって、自己紹介をします。そして、いろんなことを質問しあったりして、相手のことよく知ってください。好きなこと、苦手なこと、はまっていること、好きな食べ物、習い事、将来の夢、何でもいいです。できるだけ、相手の良いところを見つけてあげて下さい。
②次に相手のことをみんなに紹介します。「いつも教会学校で遊んでいるお友達の新しい発見はありましたか?学校などで、人のうわさや見た目だけであまりよく知らないのに人の事を悪く言ったことはないですか?あまり好きではない友達もいるかもしれないけど、どうすれば仲良くできるかな?考えてみましょう。」
私たちが、人を「いい者と悪者」に区別して、一生懸命自分を清め、汚れたこと、悪いことから遠ざかり、自分はいい者として悪者を批判しようとする時、その前提として、自分はもともと清い者であり、汚れは外から、バイキンのように入って来る、という思いがある。イエス様はそういう私たちに対して厳しい「否」をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、言ってみればバイキンの巣がある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っている。外側をいくら一生懸命に清めても、清い者になることはできないと言うこと。