理解することではなく、ゆだねること。
脈絡をつかむこと、繰り返し読むこと(他の訳も含めて)。
『ヨハネによる福音書』は、それが書かれた紀元1世紀末の教会の状況を反映している。その
頃教会で起こっていたことが、イエス・キリストのご生涯を語る話、福音書の中に持ち込まれてい
る。例えば、3章に出て来るニコデモという人。ユダヤ人の議員であったニコデモが、人々の目を
避けて夜ひそかにイエス様を訪ねて来た。それは、紀元1世紀の終り頃、ユダヤ教による迫害の中
で、ひそかにイエスを信じていた人たちがいた、という事実の反映。ここに語られていることもそ
れと同じで、紀元1世紀終り頃の教会の姿。一旦はイエスの弟子、つまり信仰者となり、教会に加
わっていたが、やがて脱落し、離れ去っていく、イエスへの信仰を失い、教会の一員として歩むの
をやめてしまう人々が出ていたのだ。『ヨハネによる福音書』はその現実を見つめて書いている。
56節に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とあります。イエス様がいつも私の内にいてくださり、私もいつもイエス様の内にいる。この私たちとイエス様とが一つとなり、分ち難く結び合わされている。これがイエス様を信じてその救いにあずかることです。このイエス様との関係、絆こそが私たちを本当に生かすのです。そしてそのような関係は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」に与えられます。イエス様は私たちを愛するがゆえに、私たちにご自分の肉を食べさせ、血を飲ませてくださいます。これが聖餐です。
イエス様との絆、信仰は、神様が、聖霊の働きによって与えてくださいます。そのことを語るのが63節で、「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。分かりにくい言葉ですが、“霊”とは神の霊、聖霊のことです。それに対して、「肉」は私たち人間の考えること、することすべてです。私たちに本当の命を与え、生かすのは、私たち人間の考え、行いではなく、聖霊です。聖霊によってこそ、イエス様の「わたしは天から降って来たパンである」という言葉が分かります。
イエス様が独り子なる神様であり、そのイエス様のもとにこそ永遠の命があることは聖霊によらなければ分かりません。肉は何の役にも立ちません。独り子なる神であるイエス様を救い主と信じる信仰は、聖霊が与えてくれます。聖霊によってではなく、肉によって、つまり人間の思いや行動によってイエス様のことを理解しようとする人々は、イエス様の言葉につまずいて去って行きます。肉にこだわることをやめて、聖霊の働きにすべをゆだねましょう。その時、永遠の命の言葉を持っておられるのは、イエス・キリストであることが分かります。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)5番「かみさまは」、改訂版49番「かみさまはそのひとりごを」。
*先週の続きです。
・先週作ったパンに色を塗って、仕上げましょう。
いのちのパンのできあがり!!
※教会の設備や衛生環境が整っていれば、本物のパン作りをするのも良いですね。
一人、ステキな名前をつけてもらってるね!
神さまは、○○ちゃん、○○くん(メンバーの名前を呼んで ) をよく知っていて、いつも一緒にいてくださいます。イエスさまと共に歩いて行こう!
イエス様を救い主、キリストと信じることにおいて、私たちは以下の問いの前に立たされる。つまり、人間イエスが、この世の貧しい者、虐げられている者の味方として歩み、彼らにパンを与え、その生活を支えるための働きに生きた、そこに救い主としての姿がある。その人間イエスの歩みを模範として、この社会をより良くするために行動することが信仰だ、という捉え方と、神の独り子であるイエス様が人間となってこの世に来てくださり、十字架の死と復活によって私たちに罪の赦しと永遠の命を与える救い主となってくださった、父なる神がその愛のゆえに遣わしてくださった独り子であるイエス・キリストを信じることによって、永遠の命が与えられる、という信仰との間で、私たちも、「あなたはイエスをどのような方と信じるのか」と問われている。