「あなたがたも離れて行きたいか」との状況。
脈絡をつかむこと、繰り返し読むこと(他の訳も含めて)。
ここのペトロの信仰告白は、他の三つの福音書においては、フィリポ・カイサリア地方へ行った
時に、他の人々がどう言っているかはともかく、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と
イエス様から問われたペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたあの信仰告白と
重なるもの。しかし、共観福音書とヨハネ福音書では、背景、脈絡が全く違う。
「あなたがたも離れて行きたいか」とのイエス様の問い。離れ去って行った人々は、イエス様の言葉を聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ったのです。彼らがそう言ったのは、51節でイエス様が、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言ったからです。つまり、わたしは地上のパンを与えてあなたがたを満腹にする者ではなくて、わたし自身が天から降って来た者、つまりまことの神であり、わたしというパンを食べることによってあなたがたは永遠の命を得る、そう言っているのです。多くの人々は、イスラエルを他国の支配から解放し、食物を与え、この世の生活を豊かにしてくれる偉大な政治的指導者としてのイエス様を信じ、期待していたのに対して、イエス様ご自身は、人間となってこの世に来られた神であり、ご自身の命を与えることによって人々に永遠の命を与えてくださる救い主だったのです。つまりイエス様において、あの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神様の愛が実現する、そういう救い主だったのです。ですから、イエス様がご自身を、天から降って来て、天へと帰って行くまことの神であると語られたことに対して多くのユダヤ人が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつまずき、去って行ったのです。そこには、一人の人間であるイエスが神であるはずはない、という思いだけでなく、イエスが自分たちの期待していた救い主ではなかった、という失望があるのです。
聖書は、神の独り子であるイエス様が人間となってこの世に来られ、十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命を与える救い主、キリストとなってくださったこと、そのイエス・キリストを信じることによって、永遠の命が与えられると語ります。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)95番「イエスさまはわたしの」、改訂版120番「しゅイエスのみちを」。
<用意するもの> 紙粘土・竹串・絵の具
1、 みんなの好きなパンは何パンかな?
食パン、あんぱん、くりーむパン、メロンパン
2、 紙粘土で好きなパンを作ってみよう
3、 竹串で今日のみことば「わたしが命のパンである。」と書く。
*今週はここまで。一週間乾かして、来週色を塗ります。
パンの奇跡を見た人々は、肉体を養うパンを与えてくれることを求めてイエス様のところに押し寄せて来
たが、イエス様は、肉体を養うパンは食べてもまた空腹になるものであり、それによって養われる命はいつか死を迎える、つまりそれは人を永遠に生かすものではない、イエス様の父である神様が与えてくださる天からのパンこそが、死ぬことのない永遠の命を与えるまことのパンだ、そのパンをこそ求めなさい、と言われた。そしてさらに、「私こそがその天からのパン、命のパンである。父は私を生きたまことのパンとしてこの世にお遣わしになったのであって、私を食べる者こそが永遠の命を得るのだ」と言われた。