イエス様は、豊かな幸福の時を与えられるお方であり、また不安や恐れをいだく時に、助け励ましてくださる方であることを覚える。
少年のお弁当である大麦のパン五つと魚二匹が用いられます。人の目に小さなものも、神様の祝福の内にみんなのために活かされます。また、祝福の神様の内にあるお弁当に目を注いだのはイエス様にあるお弟子さんたちでした。空の鳥をよく見、野の花を注意して見られ、小さくされている者へ温かいまなざしを注がれる師匠から彼らが学んでいたことによると思います。私たちの賜物、持っているものも、神様がみんなの幸せのために(それが私の幸せにもなります)用いられることが語ってくださるといいのではと思います。
・5千人の供食の記事は、どの福音書にも取り上げられている。
・6章の主題は、イエス様が命のパンの与え主であり、また命のパンそのものです。1~15節にある「5千人に食べ物を与える」記事は、イエス様が後に十字架において、本当の命のパンである生きる力、永遠の生命であるご自身を与えられたことにつながります。この箇所で、人々が満たされたことが書かれていることは、そのイエス様が与えられる命が幸せに満たすものであることを表すしるし、前兆になっています。食べ物が増える奇跡は、旧約聖書では列王記下4:42~44にあり、預言者エリシャが百人の人に食べさせる奇跡があります。
・イエス様は「山」に登り、弟子たちと座られます。山は神様がご自身を現される場として聖書にたびたび記述されます(マタイ5章からの山上の説教も)。シナイ山で律法を授与されたモーセのことが考えられています。荒れ野において、モーセは神様からパンをいただくために指導者として祈り求め、取り次いだ者でした。イエス様は神様の命のパンを与えるお方であり、命のパン(永遠の生命 6:68)そのものでした。聖書は、イエス様はモーセをはるかに超えたお方であると言おうとしています。
・200 デナリ(200 日分の給料)
・過越祭:出エジプトに際して、10の災いが起こりました。10番目の災いの際に、二本の門柱とかもいに、子羊の血をつけた家にはその災いが及ばず、過ぎ越しました。神様がイスラエルの民を守り、奴隷の地エジプトから脱出させてくださった恵みを覚え、現在もまたその恵みの神様が守ってくださることに賛美と感謝をささげるお祭りです。脱出の際、急いでいる中で発酵していない種なしのパンを食べたことにちなんで「種なしパンの祭り」「除酵祭」とも呼ばれます。ユダヤの暦でニサンの月(3~4月)の13日の日没とともに家中のパン種を除いて火で焼き、14日から21日まで、各家庭では、神様が命じられたものとして、焼いた子羊、種なしパン、苦葉などを食するようです。祭りとその食事の意味を家族で覚えて、恵みの神様に感謝をします。イエス様がこのお祭りの期間中に、最後の晩餐(このことから聖餐式において、主の体と血をいただき、救いの確かさを覚えています)を行われました。出エジプトに際して、子羊の血によって救いが与えられましたが、神の小羊であるイエス・キリストによって救いが与えられました。モーセを通して奴隷の地エジプトを脱出したように、イエス・キリストは罪、悪、死の力からの脱出を与えられました。
・「そこには草がたくさん生えていた」は詩編23編を連想させます(「青草の原に休ませ」)。イエス様はまことの羊飼いです(ヨハネ10:7以下)。いつまでも、「永遠に主の家に住まわせること」を詩編23編は言いますし、イエス・キリストにあってそのことが現実となっていることが示されます。
・男の数だけ記されています。男性を優位とする当時の社会が伺えます。女性、子ども合わせるともっと多い数です。
・出エジプト記3:14で、モーセに語られた神様の名は「わたしはある」でした。そのヘブライ語がギリシャ語訳されたのが、6:20のイエス様の「わたしだ」(「わたしはある」)です。イエス・キリストがまことの神であり、その方からの語りかけとして描かれます。湖の上を歩き、代々の信仰者たちのもとに来てくださるのは復活者であるイエス様です。福音書を読む者の元に、復活のイエス様はどんな時代、どんな状況でも来てくださることが書かれています。
・「二十五ないし三十スタディオン」4.6km~5.6kmくらい
・ガリラヤ湖の面積は、琵琶湖の面積の約四分の一。ガリラヤ湖は長い所で約20km、幅が広い所で約11kmくらいある。昼間は湖から陸に向かって風が吹く。夜は湖水の温度が下がるので、風が山から湖に吹き下ろして来る。そこで嵐が起こりました。
・聖書で「舟」は教会を象徴することがある。
今日のお話は、イエス様と一緒に歩んでいく時に幸せが豊かにあることが教えられています。子どもが持っていた5つのパンと2匹の魚が、イエス様の祝福でたくさんの人々が食べてみんな満腹したことが書かれています。その後、イエス様はひとりで山に行き、お祈りをされています。
弟子たちだけで、向こう岸へ向けて舟を出しました。夕方でした。舟を進めていくとだんだん夜の暗闇が広がってきます。そこへ強い風が吹き始めて、湖は大きな波で荒れ始めました。舟は大きく揺れます。お弟子さんたちは、舟が転覆しないか、無事に向こう岸までたどり着けるのか、心配になったと思います。
そこへイエス様が湖の上を歩いて、お弟子さんたちの所に来てくださいます。そして「わたしだ。わたしがここにちゃんといるよ。大丈夫。恐れることはない。」と語りかけてくださいました。そのイエス様と共に、弟子たちは目的地に着くことができました。
この物語はこれまで何千年も読まれてきました。様々な時代の中で、この聖書を読む人たちは、どんな時でもどんな場所でも励ましに来てくださるイエス様を感じ取って生きていったのです。このイエス様が今も生きておられ、私たちのことを祈っていてくださいます。そして、励ましてくださるのです。
嵐に遭い、沈みそうになることが私たちにもあります。いろんな問題でいっぱいになったり、心配で心配でたまらなくなったり、怖くて逃げだしたくなったりすることがたくさんあります。でも、そこにイエス様が一緒にいてくださいます。「大丈夫だよ。わたしが一緒だよ。」って言っておられます。だいじょうぶ、思い通りにならないことがあっても、イエス様のお守りがちゃんとあります。問題があっても、心に心配や恐れがあっても、そのままでイエス様がいてくださる今です。イエス様がいてくださる中での問題、イエス様がいてくださる中での心配、恐れです。なにがあっても私たちは大丈夫。なぜなら、どこでも、今ここでも、イエス様が一緒に生きていてくださり、必ず幸せの岸(所)へ連れて行ってくださるからです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)105番「にひきのさかなと」、改訂版54番「ガリラヤのかぜ かおるなかで」。
〈用意するもの〉
•ハンカチ
•二人ペアになって一人は目を閉じる
•もう一人が声だけで誘導し、教会の中や危険でなければ外の一定の距離を歩いてみる。
•次にハンカチでお互いの手を結び、声でも誘導しながら一緒に歩く。
•目を閉じる人と誘導する人を交代して同じようにする。
•声だけで誘導した時とハンカチで繋がっていた時との違いをそれぞれ話し合う。
イエス様はどこにいて、どこにおられないか、おられない場所はあるか、おられない時はあるかについて話してみましょう。イエス様は、十字架につかれました。最も深い人生の暗闇にも、イエス様はいてくださる。苦しみや悩みという十字架を背負っている私といつも共にいてくださる主のことを話してみましょう。