・イエス様の御思いは御父の思いであることを知る。
・「人里離れた所」へ行って、神様のふところで休息し、黙想する大切さをイエス様ご自身、またそれを弟子たちに指導されていたことから語る。
・しかしこの箇所では休む間もなかった。イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んで、お働きくださり、弟子たちも共に励んだ。イエス様のその御思いを語る。
・そのような思いを大切にし、その原動力をいただくために祈りを大切にする一例としてマザーハウスのこともあると思います。マザーハウスでは毎朝、ミサが行われます。神様の御前に静まり黙想し、そこから一日の大仕事に入っていきます。苦しみをかかえた方々はたくさんおられます。神様からの力を受けなければ働きはできない、とシスター方は言われます。そのシスターたちのお姿は、イエス様のお姿と生き方を映すお歩みだと思います。この箇所から、様々な場面での、私たちの生き方の指針を感じ取れるようなお話をしてくださるとよいのではと思います。
・イエス様ご自身、また同行する弟子たちも、様々な辛さをかかえた人々に向かうために、忙しいことの多い日々だったと思います。こういう記述もあります。マタイ8:20イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」イエス様のそのお姿は、御父の御思いを現します。相互のケアーのために、すべての人を用いて休むことなくお働きくださっている御父のことも覚えたいと思います。
・「飼い主のいない羊のような」:神様と私たちとの関係は、羊飼いと羊の関係のイメージで聖書にたびたび語られます。イエス様の時代、その地ではよく見られた光景だったことからでしょう。詩編23編はよく知られています。ヨハネ10章で、イエス様がよい羊飼いであることが示されます。詩編100編3節「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」という詩もあります。
・よく言われますように、34節の「深く憐れまれた」原語の「スプランクニゾマイ」は、「はらわたがちぎれるような思い。胸が締めつけられるような苦しい思い。痛む思い。」です。ルカ10章にある「善きサマリヤ人のたとえ」でもこの語は使われます。倒れている人を見たときに沸き起こったその人の思いです。共苦、共感、思いやりなどと言い換えることができるでしょう。このような感情、思いが出て来ることは、私たちが「神の像、似姿」(創世記)を持っている証拠だと思います。罪はあるけれども、確かに神様のいのちに生かされているから、それは出て来ると思います。私たちはキリストを宿しています。神様が、苦しむ私たちのことを深く憐れんでいてくださっていること、このことが示されていくことによって、私たち相互の思いやりは育まれていくと思います。
イエス様とお弟子さんたちの元には、たくさんの方々が集まってきました。みんな辛いことをたくさん抱えて、大変な毎日だったので、助けを求めてイエス様の所に押し寄せました。その人々を見て、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた、と書かれています。飼い主がいなかったら、羊はどうしていいか分からなくなって弱り果ててしまいます。倒れてしまうこともあります。そのようにたくさんの人々が弱り果てていたのです。イエス様は「深く憐れまれた」というのは、自分のお腹が痛くなるほどに、みんなの辛さはイエス様にとっても辛かったということです。泣いている人を見たらイエス様も泣きたくなる。苦しんでいる人を見たらイエス様も苦しくなる。独りぼっちだったりして、淋しさでいっぱいの人を見たらイエス様も淋しくて辛くなられたのです。天の神様もそう思っておられるから、イエス様もそうでした。イエス様はその方々を癒されました。みんな元気にしてくださったのです。
イエス様はいつもこんなふうに教えておられたと思います。「天の神様も、みんなの辛さを知っておられて、一緒に辛い思いをしておられます。そして、天の神様はその私たちを守っていてくださり、いつも一緒にいて、みんなが元気になるようにお働きくださっています。」と。
天の神様は「わたしはあなたといつも一緒にいるよ」とイエス様のお口を通して言ってくださっています。私たちはいろんなことを経験します。楽しいことばかりではありません。辛いこともあります。でも、集まった人々みんなに、イエス様が、神様の励ましと癒しを与えながら神様のことを伝えられたように、どんなことがあっても神様は私たちを守っていてくださると約束しておられるのです。私たちはその神様と一緒に歩んで行きましょう。そして、みんなで一緒に励まし合って歩んでいきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
11番「すずめやはとを」(1.4節)
〈用意するもの〉
•平たい紙皿
•クレヨンやマーカー
•折り紙や色画用紙
•100均などにあるシールやマスキングテープ
•リボン
•紙皿に絵を描いたり、色を塗ったり、折り紙や色画用紙で作ったものをくっつけたりそれぞれ好きなようにデコレーションする。
•リボンを付けて首から掛けられるようにしてメダルにする。
•教会の人や家族、友達など大切な人にメダルをプレゼントしよう。
・イエスは、人里離れた所へ行って、しばらく休みなさいと言われました(実際は休めなかったにしても)。イエス様ご自身、時折独りになるために自然の中に行かれ、神様の休息をいただかれました。私たち人間には、休むことが大切だとイエス様は教えてくださいます。一人だけではなくてもいいでしょう、「あなたがた」と書いてあります。それぞれの休息の時を持っていますか。どんな休息の時を持っているかを分かち合ってもいいのではないでしょうか。自分の休息についてのことだけではなくて、誰か弱っているお友達に「少し休息したほうがいいんじゃない。少し休もうよ。」って言うこともありますね。一緒に休めたらなおさらいいのかもしれませんね。
・6:34で、イエス様は人々を本当に励まし、癒すために「教えられること」をなされたことに注目し、人間を立ち上がらせるイエス様の「御教え」とは何かについて、みんなで考えてみる。
・イエス様は癒しの御業をなしてくださいました。癒された時私たちは「救われた」と言うことがあります。ここで考えたいことは、「癒し」は「救い」と同じ意味であるかということです。癒しと救いは異なると言っていると思われる聖書は、たとえばルカ17:11-19があるかと思います。癒された10人のうち1人は癒された後「神様を賛美し」ながらイエス様の所で戻って来ました。癒してくださったのは神様だ、と気づくことができたのです。私を愛して守ってくださっている御父に気づくことが救いです。たとえ病気が治らなくとも、お父ちゃん(アッバ)に生かされている私に気づくことが救いだと思います。イエス様は、その救いを与えながら歩かれて行かれたと思います。創世記には、神様に造られた私のことが書かれています。神の国(楽園)で、神様と共に生きることが救いであることが書かれています。それに気づくことは、生きている中、どこで、どんな事実から悟ることができるか考えてみましょう。例:野の花、空の鳥、私の身体の臓器、器官の働きなど 神様が生かし、お働きくださっていますね。
・イエス様、神様が、深く憐れんでくださっています。それが人間関係を良い方向へと導いてくださる元になってくるでしょう。憐れまれた者を憐れむ者へと神様は導いてくださいます。そうやって生きて行くことが「喜び」(ヨハネ15:11)になるでしょう。これが、被造世界の道理、法則だと思います。神様は愛し愛されるために私たちを造られましたから。愛された者は愛する者へと導かれていくと思います。大切にされて嬉しかった経験を思い出したり、分かち合ったりしてもよいのかもしれません。自分が愛された経験から、今度は他者を愛する方法を知ることに関してより豊かにされ、それぞれのこれからに活かされていくのかもしれません。