・主イエスは、私たちの側に居て必要な助けを与えて下さる「弁護者」なる聖霊をお与え下さる。この聖霊は、主イエスこそ救い主であることを証しする力であることを知る。
・今日の言葉が語られているのは、いわゆる最後の晩餐の席です。主は間もなく逮捕され、夜が明ければ十字架につけられてしまう。いつまでも一緒に居られると思っていた主イエスは世を去るのです。しかし、主は父なる神にお願いして弟子たちのためにパラクレートス(弁護者)を遣わして下さる。私たちを孤児にはしないと約束して下さるのです。
・聖霊はどのような力を与えてくれるのでしょうか。19節以下に、聖霊の働きが3つ述べられています。第1の働きは心の目を開いて下さることです。第2の働きは人を生かすことです。第3は聖霊が降る時に、御子イエスが父なる神と共におり、弟子たちが主と共にいることが分かるようになる。つまり、父と子と弟子たちは聖霊によって一つに結ばれていくのです。「インマヌエル=神われらと共にいます」、これが聖霊によって現実となっていくのです。
・ギリシャ語では霊を表す言葉にプニューマというのがあります。霊、息、風といった意味を併せ持っています。聖霊を表す場合には、このプニューマを用いるのが一般的です。これに対してヨハネ福音書は別の言葉を使うのです。パラクレートス、16節で「弁護者」と訳されている言葉です。元々は「傍らに呼ばれた者」という意味です。ピンチの時、隣で助けて貰うために呼ぶ人のことです。ここから転じて、法廷での弁護人、慰めを与える者、教えを与える者、英語で言えばカウンセラーといった意味を持つようになりました。聖霊とは正に私たちの傍らに立って、助け手となり力となり福音を教えて下さる方、何ものにも代えがたい慰め主、相談相手なのです。
聖霊降臨祭は新しい出発の日、教会の誕生日であるとよく言われます。何が始まるのでしょう。何が生まれたのでしょう。主イエスは、弟子たちの許を離れ、天の父の御許へと行かれました。弟子たちは、今までイエス様にべったりくっついていました。その時、主イエスが去っていかれたのです。それは、「あなたがたは自立しなさい」、「自分で歩き始めなさい」という、主のご復活の実として弟子達が自立して歩み始めることを促すためでもありました。
私たちは赤ちゃんの頃、一人で立って歩くことが出来ませんでした。ですからお母さんをはじめ大人の人に抱っこやおんぶをしてもらいました。でも1歳を過ぎると段々、ハイハイからつかまり立ち、そしていつの間にかひとり立ちが出来るようになるのです。お母さんが、子供がかわいいからといって、抱っこばかりしてはいつまでも甘えん坊のままで、独り立ちや歩くことは出来ません。信仰も一緒です。最初はミルクしか飲めない幼子でも、次第に堅いものが食べられるように訓練していかなければならないのです。その力と勇気を与えて下さるのが私たちの傍らにいて、必要な助けを与えて下さる聖霊です。
それでは、私たちは聖霊を求めるのにめいめい勝手に、それぞれの信仰で祈り求めれば良いのでしょうか? そうではありません。聖書には「一同が一つになって集まっている」時に起きたとはっきり書かれています。礼拝に皆が集まるのはそのためです。
そしてもう一つ別な聖霊の働きがあります。それは私たちの頑なな心を打ち砕いて柔らかにして下さることです。信仰は深く耕すと書く「深耕」にも繋がっています。更に「親交」、「進行」、「新興」、「神幸」と広がりと深さを加えていくのです。これらを見えないところでして下さるのが聖霊のお働きなのです。この「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:5)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)42番「おことば しんじ」、改訂版96番「せいれいよ、きてください」。
イエス様の顔を完成させようゲーム
*大きな紙にイエス様の顔の輪郭と髪の毛を描く。(福笑いの台紙のように)
目、鼻、眉毛、口などを描いて、パーツを作る。
① 一人、ハンカチなどで目隠しをして、顔を描いた紙の前に座る。
② もう一人が「これは目です」などと言って目隠しをしている人に渡す。
③ ほかの人たちは、正しく顔を作れるように、「もう少し右(左・上・下など)」と
指示を出してあげる。
(各パーツごとに、1分位の時間制限を決めると面白い。時計係を決めるのも良い)
助けてくれる人の声を聞き、イエス様の顔を誰が上手に完成できるかな。
・皆さんには困った時や悲しい時、側に居てくれる大切な人、強い味方がいますか? また自分が、誰かにとってそのような人になることができるでしょうか?
・ペトロは手紙の中で次のように語っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
これはイエス様を信じる私たちの中にも起きる出来事です。どうしてこのような喜びや力が湧き上がってくるのでしょうか、話し合ってみましょう。